秋のある晩、田中浩一は、久しぶりに実家に帰省した。
彼の実家は北海道の小さな村にあり、普段は賑やかな街で暮らしているが、この静けさは心を落ち着ける一方で、どこか不安を掻き立てた。
特に、母から聞いていた「上の部屋」にまつわる不穏な噂が心の中に引っかかっていた。
子供の頃、浩一はその部屋に入ることを禁じられていた。
母は恐ろしい表情で「決して上には行かないで」と言ったものだ。
近づくことすら恐れていた上の部屋は、両親が結婚した当初から、何かが住み着いているかのようだった。
村では「上の部屋」が語り草になっていて、誰もがその正体を知りたいと願い、同時に恐れていた。
噂によれば、そこには恋人を失った娘の魂が住んでおり、彼女は未練を抱えているという。
たまに夜になると、不気味な声で誰かの名を呼ぶことがあると言われていた。
それを聞いた者たちは、決まって敬遠し、村を離れていくのだという。
浩一は、家に帰ったことを喜んでいたが、次第にその噂が頭から離れなくなった。
「会ってみたい」という好奇心が芽生えた。
彼はそっと階段を上り、上の部屋の前で立ち尽くす。
ドアはぎしぎしと音を立て、開かれている。
浩一は心の鼓動が速まるのを感じながら、思い切って中に踏み入れた。
薄暗い部屋は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
古びた家具が、静寂の中で黄ばんで見えた。
それでも彼はその中に、何か人の気配があるように感じた。
声はしないが、彼の心の奥底に触れてくるような、哀しみの感情を帯びた存在感だ。
きっと、彼女は本当にいるのだろう。
この部屋で何をしているのか、浩一は知りたかった。
彼は「現れるなら、どうか私を呼んでください」と呟く。
すると、急に冷たい風が吹き抜け、まるで誰かが背後に立っているかのような気配を感じた。
振り返ると、ひとりの少女がそこに立っていた。
青白い肌に、長い黒髪が彼女の肩を覆い尽くす。
目は虚ろで、どこか浸透するような深さを持っている。
浩一は心の底から「君の名前は?」と問いかける。
少女は一瞬微笑んだが、その顔には哀しみがにじんでいた。
「私の名前は…千鶴。あなたに会いたかったの」と返事をした。
浩一は一瞬戸惑った。
どうして彼女が自分に会いたがっているのか。
千鶴は語り始めた。
「私が生きていた頃、心の中に浸み込んでいた望みがあった。それは愛する人と一緒に生きること。でも、事故に遭い、私は彼を失ってしまった。今でも、彼への思いが消えず、ここに留まっているの。」
浩一は、その言葉に胸を締め付けられる思いだった。
彼の心の中で、千鶴の切ない望みが響いてくる。
彼女の姿はどこか自身に似ている気がした。
失ったものへの未練、立ち戻ることのできない道、そんな感情が共鳴した。
「どうすれば、君は解放されるの?」浩一は尋ねると、千鶴は少し考え込み、じっと彼を見つめた。
「私が本当に望んでいるのは、忘れてしまうこと。ただ、あなたにこの気持ちを伝えたかった。」
浩一は頷いた。
伝えるだけでなく、彼女の思いを共有しなければ、彼女はここに留まり続けるだろう。
この瞬間が、彼女を解放する鍵になると思った。
浩一は心を込めて彼女の手を取った。
彼女の冷たい指先が、自分の肌に触れている。
その瞬間、暖かな光が満ち、心が軽くなったような気がした。
千鶴は微笑んで言った。
「ありがとう、浩一。これで私は、彼に会いに行ける。」その言葉が終わると同時に、彼女の姿は霧のように消えていった。
浩一は目を瞑り、その余韻に浸った。
千鶴の心を理解できたことで、彼女の魂は解放されたのだと信じた。
次の日、村の噂は消えていた。
悪い手の存在は影を潜め、穏やかな日々が戻ってきた。
浩一は「上の部屋」での出来事を決して忘れないだろう。
彼が千鶴に会ったこと、それは彼女とともに心の中にずっと生き続けることになる。
そして、その瞬間が彼に思い知らせたのだ。
魂の望みは、たとえ姿が見えなくとも、いつか叶えられるものなのだと。