木々が生い茂る古い山の奥深く、そこには一つの小さな集落があった。
集落の外れに位置する「篭」という名の古びた小屋は、誰も近づきたがらない場所だった。
かつてその小屋には、普通の一家が住んでいた。
しかし、数年前、母が発狂し、父が姿を消した。
そして、子供たちは次々とこの世を去ってしまった。
今では誰もその小屋を「家」と呼ぶことはなかった。
その小屋に住むのは、今は亡き一家の娘、菜々(なな)だけだった。
彼女は心の底から愛する両親を失い、残された影のような存在となっていた。
菜々は自分の内面で起こる狂気の波に苦しみながら、静かに日々を過ごしていた。
誰かと話すこともなく、彼女の心は次第に瘴気のように濁っていく。
ある日、菜々は自分の影が不自然に動くのを目にする。
通常、影は常に自分とともにあるはずなのに、時折影だけが独自にその場を離れ、まるで他の何かに導かれるかのように動くのだ。
菜々は怖れながらも、それに興味をそそられ、影を追いかけることにした。
影は、まるで彼女を誘うかのように篭の奥へと進んでいく。
菜々は、影が自分の後ろで蠢く感覚を感じながら、小屋の戸を開けた。
篭の中には、かつての家族の面影が残っていて、懐かしい温もりが漂っていた。
しかし、彼女の心に残るは狂った日々の記憶ばかりだった。
翌日、菜々は再び影に導かれ、家の奥の部屋へと入った。
その部屋は古い家具や思い出の品々で埋め尽くされていた。
懐かしい思い出が浮かぶ中、彼女は一つの写真を見つける。
それは、彼女と両親が笑顔で写っているもので、まだ平穏だった日々を物語っていた。
しかし、菜々の心には既に狂気の影が忍び寄っていた。
すると、ふと耳鳴りが聞こえる。
徐々にそれは大きくなり、やがて耳をつんざくような声となり、彼女は耐えきれずに両手で耳を押さえた。
声なき声が、心の奥底で囁く。
「還れ、還れ…お前は間違っている…」
その瞬間、影が一際大きく揺れ、菜々の目の前に立ち現れた。
彼女は自分の影の姿が、過去の両親と同じ顔で見つめ返していることに気づく。
彼らの目は深い闇に覆われ、言葉を持たない彼女に向かって、ただ一言だけ呟いた。
「我らを忘れるな。」
狂気の波にやられていた菜々は、その言葉が彼女の心を揺さぶるのを感じた。
忘れ去られること、その影響すらも、彼女にとっては恐ろしい運命であることを理解した。
自分の狂った心が呼び覚まされた瞬間、彼女は叫んだ。
「私は忘れない!決して!!」
影たちは、彼女の心の闇を受け止め、力強く返した。
「ならば、共にいるがよい。お前の記憶を背負い、狂気を共有しよう。」影が再び彼女に寄り添うと、彼女の意識が次第に薄れていくのを感じた。
やがて、菜々は無意識のうちに篭の中で過ごす日々が続く。
彼女の心は影と一体になり、現実と狂気の狭間で彷徨っていた。
そして、影は彼女が忘れようとしたものすべてを記憶し、彼女とともに生き続けた。
時が経ち、季節が変わり、集落の人々は「篭」に近づくことをやめた。
しかし、その小屋に菜々の姿は決して消えず、影となり家族の記憶を背負った彼女は、永遠に狂った心で過ごし続ける。
彼女の声は、きっと誰かに届くことなどないまま、再び静けさの中に溶けていった。