舞台は、古びた台所だった。
小さなアパートの一室にずっと放置されているその台は、かつて美味しい料理が作られ、人々に喜ばれていた。
しかし、今では油汚れが溜まり、薄暗く淀んだ空気が漂っている。
それでも、家主の美紀はその台を手放せなかった。
彼女にとって、その台は大切な思い出の一部だったからだ。
美紀は引っ越しを決めたのだが、どうしても台だけは処分できず、小さな物置の隅へと押しやった。
友人の拓也が引っ越しを手伝いに来る日、彼はその台に目を向けた。
「これ、捨てないの?」と指を差すが、美紀は「これは私の大切なものだから」と微笑んで答えた。
しかし、拓也はどこか不安そうにその台を見つめていた。
数日後、引っ越しが完了し、美紀は新しい生活を始めた。
しかし、台を捨てられなかった心の隙間が埋まらず、彼女は時折、古いアパートを思い出していた。
そして、ある夜、ふとした拍子に目が覚めると、台所から異音が聞こえてきた。
心臓をバクバクさせながら音の正体を確かめに行くと、提げていたはずの鍋が誰かに触れられているかのように揺れていた。
その後も、奇妙な現象が続いた。
毎晩、美紀は夢の中で誰かが台の前に立っているのを見た。
その人物は姿がぼんやりとしていて、はっきりとした顔は見えない。
しかし、美紀はその人が自身に向かって手を伸ばしているのを感じた。
それは恐怖を煽るような存在だが、同時にどこか懐かしさも感じるようだった。
そして、ある晩、美紀はその夢の中で声を聞いた。
「ここにいるのに、どうして私を捨てるの?」それは女性の声で、彼女はまるで自分を責めるように言った。
美紀は目を覚まし、冷や汗をかいた。
数日後、実家に帰省した際、母から不思議な話を聞いた。
「昔、あの台があった家で、料理をしている途中で亡くなったおばあちゃんがいたのよ」と。
美紀の心にはその言葉が響いた。
あの台には、強い思いが詰まっているのかもしれないと感じた。
その後も、台の存在は美紀の心に巣食い続けた。
そのことで徐々に色々なものが崩れていった。
友人たちとの関係が悪化し、仕事も順調ではなくなっていった。
毎晩同じ夢に悩まされ、彼女は次第に精神的に追い込まれていった。
友人の拓也も心配になり、強引にアパートに戻ってきてくれた。
「美紀、大丈夫か?」と心配する拓也に、美紀は「何も心配しないで」と微笑むが、その内心は不安でいっぱいだった。
その夜、再び奇妙な夢を見た。
おばあちゃんの姿が明確になり、台の前に立っているというものだった。
彼女は優しく微笑み、次の瞬間、静かに囁いた。
「あなたに私の記憶を受け継いでもらいたいの。」
美紀は目を覚まし、全身に鳥肌が立った。
彼女は台から逃げることができないという現実を直視せざるを得なかった。
朝になり、拓也が立ち尽くす彼女を見つめた。
「どうするんだ?」と問うが、彼女はただ、目を閉じて深呼吸した。
ある夜、決意を抱きながら、美紀は台に向かって言った。
「私はもうあなたを抱えきれない。」その言葉を放った瞬間、台の表面が微かに揺れ始め、次の瞬間、消えてしまった。
いったい何が起きたのか、美紀には全くわからなかった。
しかし、長年にわたる呪縛から解放されたように感じた。
しかし、現実は優しくはなかった。
消えたはずの台の影は、彼女の周りでゆらっと揺れ続けていたのだった。
そして、美紀の心の中に危うい崩壊が始まった。
過去の記憶が再び彼女を支配する中、彼女は自分自身がその台に囚われ、消えてしまう運命を背負わなければならなくなったのだった。