「止まりし家の声」

ある町に、静かな住宅街が広がっている。
春の柔らかな日差しが煌めく中、そこに一軒の古びた家があった。
その家は大通りから少し離れた場所に位置し、かつては賑やかな家族が住んでいたが、今は誰も寄り付かなくなった。
住民たちはその家を「止の家」と呼び、年々その存在が忘れ去られていった。

主人公は中村健太。
彼はサラリーマンとして忙しい日々を送っていたが、ある日、ふとしたことからこの「止の家」に目を留める。
彼の同僚である佐藤が、その家にまつわる奇妙な噂を耳にしていたからだ。
「あの家には、止まる声が響く」と言われるその噂は、話すたびに内容が変わり、果たして本当なのかどうかわからなかった。
興味を持った健太は、噂の真相を確かめてみようと決意した。

昼下がり、健太は家の前に立った。
周囲には誰も見当たらない。
草が生い茂り、玄関のドアが少し開いているのを見て彼は一歩足を踏み入れた。
家の中は薄暗く、長年のほこりが積もり、壁には古い写真が掛けられていた。
それは、かつてこの家に住んでいた家族のもので、彼らは笑顔で写っている。
しかし、プレッシャーが彼の胸にのしかかってくるような感覚がした。

その時、ふいに音が聞こえた。
静寂を切り裂くかのように、微かに「止まれ」という声が響いた。
健太は驚き、周りを見渡したが、誰もいない。
心臓が高鳴り、彼の脳裏に不安が過ぎる。
果たしてこの声は何なのか。
彼はその場を離れようとしたが、なぜか一歩が踏み出せない。
そう、身体がまるで止められているかのようだった。

その時、再び声が響く。
「己を知れ」。
その声は温かさを感じさせる一方で、何か恐ろしいものが隠れている気配がした。
健太はしばらく動けずにいたが、やがて意を決して奥へ進むことにした。
廊下を進むにつれて、次第に声が強くなっていく。
彼は声に導かれるように、リビングの扉を開いた。

中に入ると、そこには古びたソファーが置かれ、その上には一冊の本が無造作に置かれていた。
「己の記憶」とタイトルが書かれたその本を手に取ると、彼は一瞬目が回るように混乱した。
ページを捲ると、過去にこの家で暮らしていた人々の思い出が綴られていた。
それは、彼らが抱えていた悩みや苦しみ、喜びの記録だった。
しかし、その中には不気味な内容も含まれていた。
「進むことを拒む声」として、目の前で起きた出来事が延々に繰り返されるという恐ろしい現象が叙述されていた。

健太は背筋に寒気が走るのを感じた。
その瞬間、「止まれ」の声が再び耳に響く。
彼はその声が自分に向かっていると理解した。
ここから出てはいけないという警告なのだろうか。
動こうとするも、全身が動かず、ただ固まってしまった。
自己の限界に直面し、彼は「自分は何ができるのか」と問いかける。

そして、健太はその家の意味を悟った。
この家には、過去の住人たちが抱えていた未練が見えない形で閉じ込められていた。
行くことも来ることもできない自分自身が、いつの間にか「己」を見つめ直す機会を与えられていたのだ。

時間が経つにつれ、声は徐々に静かになり、彼はその場から解放される感覚を得た。
振り返ると、リビングには誰もいなかったが、代わりに心の奥底にあった恐怖が和らいでいくのを感じた。
彼はそのまま外に出ると、胸の中のもやもやが晴れていくようだった。

健太は振り返り、再びあの家のことを考え始めた。
「止の家」は過去を抱えた人々の思い出が、彼の心に何かを教えてくれたのかもしれない。
自らの切り離せない部分を受け入れ、進むための第一歩を示してくれたのだと。
彼はその日以来、幾度か「己を知れ」の声を思い出し、自分自身を見つめ直すようになったのだった。

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