「鏡の中の囁き」

その日、真夏の暑さがまだ残る九月の初め、佐藤は舎の一室に腰を下ろしていた。
長年放置されたその場所は、直射日光が差し込むことなく、共に冷たく湿った空気が漂っていた。
周囲の人々はその舎を忌み嫌い、中に入ることさえ避けていたが、佐藤には何か不気味な魅力が感じられた。

彼は幼い頃、祖父からこの舎について聞かされていた。
「ここには、誰も見ることのできない存在がいる。それに関わる者は、必ず何かを失う。」その言葉が胸に焼きついていたが、逆にその言葉が彼を惹きつけたのだった。

ある日、田んぼの仕事を終えた帰り、佐藤は舎の前に足を止めた。
ふと、何かに導かれるようにその扉を開け、内部に踏み込んだ。
チリチリとした音と共に、彼の心臓がドキドキと高鳴った。
光が薄れ、暗さに包まれる中、彼は奥の方に進んでいくことにした。

舎の奥には、一件の奇妙な仕掛けが施された小部屋があった。
壁には無数の爪痕が残っていて、まるで誰かがそこから逃げ出そうとしていたかのようだった。
好奇心に駆られ、彼はその部屋の真ん中に立つ古びた鏡に目を奪われた。
人の姿が映るのではなく、ただの黒い空間が映っているようだった。
しかし、彼はそれに何かを感じずにはいられなかった。

佐藤は足を踏み出した瞬間、周囲の空気が一変した。
冷たい風が彼の背筋を撫で、まるで見えない何かが彼を押さえつけているかのようだった。
彼は恐れを感じると同時に、何かを求められている気がした。
心のどこかに「生」という感情が渦巻き、「索」という言葉が頭の中を反響していた。

「あなたが求めているものは何なのか?」

その瞬間、佐藤の耳に低い声が響いた。
驚きと共に振り返るが、後ろには誰もいない。
気づけば、鏡の中に彼自身が映り込んでいた。
しかし、鏡の中の自分は薄暗い微笑みを浮かべ、こちらを睨んでいることに気づいた。

焦りと恐怖が同時に襲ってきた。
彼はその存在が本当に自分を映しているのか、それとも別の何かに操られているのか、考える余裕もなかった。
声は続けてこう言った。
「あなたが失ったもの、それを取り戻したいのなら、私の道を歩むがいい。」

佐藤はその言葉に引き寄せられるように、再び鏡に近づいた。
彼の中にある「希求」が何かに触れ、その存在を確かめたいという思いが強まった。
けれども、何かが彼の心の奥底に潜んでいることに気づく。
失ったものとは、恐らく彼がここに来るまでは忘れていた孤独な毎日なのだ。

次の瞬間、佐藤は自らの手を鏡に伸ばし、その表面を触れた。
冷たさが全身を貫くと、彼は鏡に吸い込まれてしまった。
目の前が真っ暗になり、次に彼が目にしたのは、先ほどの小部屋であるはずなのに、自分以外に誰もいない光景。
温もりが消え、冷えた空間が彼を包んだ。

その後、数日経っても、佐藤は戻ることがなかった。
村の人々は彼を探し、舎に足を運ぶことにしたが、扉は固く閉ざされていた。
そして、ある夜、村では佐藤の名がかすかに聞こえてくることがあった。
「助けて」とか、「ここにいるよ」というような声が、風に乗って村中を漂っていた。

彼の存在は次第に忘れ去られ、ただ「佐藤が舎に取り込まれた」という噂だけが残った。
けれども、その舎に今も残る鏡は、静かに、暗く、さまざまな悲しみを映しているという。
そして、誰かがその存在を求め続ける限り、佐藤の声は、永遠に響き続けるのだろう。

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