「波間の囁き」

奥深い山々に囲まれた静かな浜辺には、夏季が過ぎ去ると人々の足が遠のくという風景が広がっていた。
その浜には、越してきたばかりの老夫婦が住む小さな家がひっそりと佇んでいた。
老夫婦のうち、特に年老いた男性は、かつては漁師として波間に生きていたが、今は漁を辞め、妻と二人三脚で日々を過ごしていた。

ある日の夕暮れ、老夫婦は浜を散歩していた。
日の入りの光がゆらめき、海が優しいオレンジ色に染まる中、男性はかつての栄光を思い返していた。
しかし、彼の目は、何か不気味なものを捉え始めていた。
海の向こう側、何かが波間で輝き、彼を引き寄せているように感じた。
気がつくと、妻が彼の後ろに立っていた。

「あなた、何を見ているの?」と妻が尋ねた。
男性はただ黙ってその光を見つめながら、何かが彼の目を引いていることを感じていた。
不安が胸をよぎりながらも、どこか惹かれるような気持ちが強くなっていくのを止められなかった。

「ちょっと、行ってみようか」と彼はつい口に出してしまった。
妻は驚いた様子で彼の顔を見つめ、「そんなことをしたら危ないわ。あの浜は人が近づいてはいけないって噂されているの」と言った。
しかし、男性の心には、その声は届かなかった。
彼は浜に近づいていく。

光が深まるにつれ、その正体が見えてきた。
それは何か小さな貝殻のように見えたが、形は異様で、まるで人間の目のように、彼をじっと見つめ返しているようだった。
冷たい波が彼の足元をさらっていく感触があり、彼は一歩、また一歩と近づいた。

「待って!」と妻が叫ぶ。
しかし、男の耳には彼女の声はまるで遠くから聞こえる音のように響いていた。
彼はその目を見つめ、何かに取り憑かれたかのように動けなくなった。

その瞬間、彼の脳裏に過去の記憶が蘇る。
若かりし頃、一人の漁師と出会い、そこで繰り広げられた不思議な体験。
それは、海の向こうにいる「もの」が、漁師を呼ぶ声だったという。
友人が命を落とし、彼だけが生き残ったあの日。
その影が、彼を再び呼び戻している。

「帰ってきて…」その声が波間から聞こえ、男性はその場に立ち尽くした。
彼は自分の過去と向き合わされているのだ。
「掴まれた腕が…」彼は心の中で叫んだが、全てが現実に感じられない。

「あなた!」妻が彼の手を掴み、引き寄せた。
彼は我に返った。
目の前には恐ろしい形の貝殻がひしめき合うように広がっていて、彼を見る目が無数にあることに気付いた。
逃げたくても逃げられない。
波に飲み込まれそうな恐怖が彼を襲った。

「すぐにここを離れましょう!」妻は力強く叫び、彼の手を強く引っぱった。
恐る恐る振り返り、全速力で浜を駆け抜けた。
彼は心の奥底に秘められた恐怖が解き放たれる瞬間を感じた。

浜から離れて数歩、彼は振り返り、再びその光を見た。
貝殻は無数の目を光らせ、彼が離れていくのを見つめていた。
逃げる彼に向かって、その目は「帰れ…帰れ…」と囁いているようだった。
その声が恐怖となり、彼の心に刻み込まれた。
「もう二度と、近づかない」と彼は誓った。

だが老夫婦は誰も住まない浜での逃避行中、老いた身体が限界を迎え、彼はその晩、家から出られなかった。
波の音さえも、いつしか彼を呼ぶ声に変わっていったのだ。

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