「無の道行き」

静まり返った夜、バスが走る道は山々に囲まれていた。
この暗い道を、一人の青年が走る古いバスに乗っていた。
彼の名前は直樹。
大学の帰省のために北へ向かう途中だったが、そのバスは誰もいないかのように空いていた。
運転手は無口で、ただひたすらに道を進んでいた。

途中、直樹は窓の外に目を向けた。
月明かりに照らされた山の輪郭が、何か不気味な雰囲気をかもし出している。
隣に座っている老婦人も黙って座っている。
何度か視線を交わしたが、彼女の顔には表情がなかった。
直樹は気を取り直し、スマートフォンを取り出した。
しかし、何を操作しても電波が入らず、ただの飾りになっていることに気づく。

そのまま何も起こらないことを願い、直樹は目を閉じた。
目を開けた時、バスはまるで異世界にでも入ったかのように、不気味な霧に包まれていた。
何も見えない道の先には、何かが待ち受けている気配がする。
しかし、バスは進み続けた。
突然、老婦人がつぶやいた。
「ここは、戻れない道よ。」

直樹は慌てて振り向く。
老婦人は彼をまっすぐに見返し、深い闇の中で恐怖を感じさせる目をしていた。
「何を言っているのですか?」直樹は冷や汗をかきながら尋ねた。
老婦人は続けて言った。
「私たちは、敵を迎えに行くの。生を捧げるために。」

その言葉は直樹の頭の中で鳴り響き、不安が彼を支配した。
バスの音だけが静まり返った夜の中で彼の心拍は速くなっていく。
おそらくこのバスには、ただの旅人ではない何かが乗っているのではないか。
直樹は自分の周囲を確認するが、他に乗客はいない。
彼はその時、ふと気づいた。
バスには「無」が支配しているのだ。

運転手は無表情のまま、やがてバスを止めた。
外は完全な暗闇と霧しか見えない。
老婦人は立ち上がり、彼に手を差し出した。
「来なさい、敵が待っているわ。」

直樹は恐れを感じながらも、彼女の手を取った。
なぜか引き寄せられるように、彼はバスを降りた。
周囲には、他の人々が見えた。
しかし、彼らの表情は敵意に満ち、人間ではないように見えた。
その中には、彼の友人もいた。
彼もまた、無表情で永遠に立ち尽くしていた。

「生を捧げるというのは、敵との絆を築くためなの」と老婦人は囁いた。
「彼らは、私たちの過去の姿を映し出す。敵にするか、仲間にするかはあなた次第よ。」

直樹はその言葉の意味を考えた。
彼は選択の時を迎えていた。
自分の逃避行の意味を知りつつ、逃げ続けてきた他人との絆を思い出す。
それは彼自身の心の状況を映し出していた。
仲間を無視し、敵として見なしてしまった自らを反省しなければならない。

彼は立ち尽くし、周りを見渡した。
友人たちの無表情は彼にとって、過去の自分の投影であった。
直樹は感じた。
彼は彼らを敵と見做し続けていたが、それは彼自身の心の中の敵だったのだ。

「これが僕の敵だ。逃げたいけれど、向き合わなければならない。」直樹は心を決めて言った。
彼は友人たちの側に歩み寄り、彼らの手を取った。
老婦人はそれを見て、微笑みながら言った。
「あなたは、一歩を踏み出したわね。」

再び、彼はバスに戻ることになった。
周囲の霧は消え、月明かりが周りを照らしていた。
彼の心にかつての恐れはなく、絆の重みが優しさに変わっていた。
直樹の中には過去を受け入れ、未来に向かう力が宿っていた。
バスは静かに走り出し、彼は生と絆の大切さに気づいたのだった。

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