「消えた心と畳の下」

畳の部屋は、静寂に包まれていた。
壁に掛けられた古い掛け軸が、一筋の光を受けてわずかに揺れている。
そんなある晩、いつも通り友人の正志が訪ねてきた。
彼は普段から気になることを話すのが好きだったが、その夜は何やらいつもとは違っていた。

「最近、変な夢を見たんだ」と正志は言った。
顔色が優れず、言葉の端々には何か不安を抱えている様子が見て取れた。
「夢の中で、畳が自分を吸い込むように感じたんだ。そこからは、何も感じなくなった。」

私は珍しい話に興味をそそられ、「どんな夢だったの?」と尋ねると、正志は少し躊躇してから言葉を続けた。
「夢の中で、畳の上に立っていると、急に気配を感じた。誰かに見られているような気がして、振り返ろうとしたけど、体が動かなかったんだ。」

正志の話を聞いているうちに、私の身体にも微かに不安が広がっていく。
その感覚は、まるで部屋の空気が重く感じられるようなもので、何かが存在しているのではないかという気配が漂っていた。

「その後、畳が亀裂を入れて、どんどん深くなるように思えた。まるで自分の心を消し去ろうとしているかのように。」彼の言葉が続くごとに、畳の上の空気がさらに重く、居心地の悪さが増していた。

「何か知らない力に飲み込まれてしまうような感覚だった。だから、目を閉じて逃れようとしたけど、目を閉じるとさらに深い闇に引きずり込まれていく。もう何も感じられなくなって、目が覚めた時には、全身が冷たくなっていた。」

そう正志が言い終えた瞬間、部屋の畳が微かにきしむ音を立てた。
私たちは顔を見合わせ、心の奥では恐怖が芽生え始めていた。
すぐに立ち上がり、懐中電燈で部屋を照らしてみたが、何も見当たらない。
ただ静かな空間だけが存在する。

「この畳、何かおかしい気がする…」私が口にすると、正志の顔が青ざめた。
「心を消す力が働いているのかな…私たちの気が、何かに反応しているのかもしれない。」

お互いの不安をごまかしながら、私たちはその晩は声を発することすらできなかった。
畳が何か異なる存在を抱えているのではないかという恐怖が、心にじんわりと広がっていた。

しばらくの静寂の後、正志が申し訳なさそうに言った。
「多分、あの夢はただの夢じゃなかったんだ。何かメッセージがあるのかもしれない。私たちに現実を忘れ、心を消すことを教えてるのかも…」

それから私たちは、畳に対する恐れを感じながらも、眠りにつくことにした。
だが、その晩もおそらく正志は眠れなかっただろう。
朝を迎えると、玄関に立てかけてあった仏壇のそばに、一つの古びた空の酒瓶が転がっていた。

それを見た瞬間、正志の中に何かがよみがえったかのように青ざめた。
「あの酒瓶、夢の中に出てきたやつだ。」正志は言った。
その瞬間、私たちは何かが確実に変わったことを感じた。

畳の消し去る心の力。
それはただの夢の中の現象ではなく、畳そのものが私たちに向けた警告だったのだ。
心を消すことで、自分たちの存在が如何に脆いものであるかを教えてくれていたのかもしれない。

それからというもの、正志は畳のある部屋には二度と近づこうとはしなかった。
そして私も、その空間の中に留まることで、また心の奥底に何かが消えていくのを恐れていたのだった。
畳の上で静かに待つもの、その存在を忘れることは決してできなかった。

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