「闇に沈む束」

時はいつのことか、薄暗い庫の中で、一人の老が静かに作業をしていた。
彼の名は佐伯修司。
老齢にもかかわらず、彼は長年その庫で木工をし、生計を立てていた。
庫は町はずれの山の中腹に位置し、周囲を深い森に囲まれていた。
そのため、外界との繋がりが薄く、訪れる者も少なかった。

ある晩、修司は新たな作品に取り掛かろうと、倉庫にこもっていた。
彼は自作の家具に愛着を抱き、それを作っている間は時間を忘れるほどだった。
しかし、暗くなるにつれて、彼の周囲に不穏な空気が漂い始めた。
木の切り口から漂う香りや、工具を操る手の動きに併せて、何かが彼の背後に忍び寄る気配を感じた。

不意に、庫の中に風もないのに、微かな「し」という音が響いた。
修司は背筋を冷やし、振り返った。
しかし、そこには何もなかった。
ただ、木材が静かに積まれ、工具が並べられているだけだった。
彼はその時、ただの幻覚だと自分に言い聞かせ、再び作業に戻ることにした。

だが、その「し」という音はその後も何度も繰り返された。
気味悪く、心を不安にさせる音だった。
修司はそれを無視しようと努力したものの、どんどん気が散っていく。
彼は仕事が進まないことに苛立ちを感じ、思い切って立ち上がり、小休止をとることにした。

外の空気を吸いに行くつもりで、扉を開けると、月明かりが静かに差し込んでいた。
しかし、何かが彼を引き留めるように、再びその不可解な音が聞こえた。
音は今度は「束」という響きに変わり、明らかにその音は複数の声になっていた。
修司は好奇心と恐怖の狭間で揺れながら、音のした方へと慎重に足を進めた。

暗闇の中、彼の目に映ったのは、何本もの木の束が整然と並べられているさまだった。
しかし、それらの木の束は、明らかに他のものと異なり、彼の無垢な木材とは違う、不思議なオーラを放っていた。
それを見た瞬間、彼の心に不安が広がった。
まるでそれらの束が彼に何かを訴えかけているような気がしたのだ。

音が再び「し」と続き、彼の耳元で響いた。
「助けて…」という声がはっきりと聞こえた。
修司は思わず立ち尽くし、そこにいるべきでない何かがいると感じた。
その時、暗闇の奥から、かすかな影が彼に近づいてきた。
影は徐々に形を成し、彼が知っている、亡くなった妻の姿に見えた。

「修司…位に…助けて…」彼女の声は、かすかに、しかし確かに響いた。
彼女の姿は朧げでありながらも、その目は何かを訴えるように修司を見つめていた。
彼は恐怖と懐かしさが入り混じった感情に包まれ、自身が何をすべきか理解できなかった。

「束は…もう解かれているはず…助けて…」彼女の声がこだまする。
束、つまり彼が執着する森の木々が何かの象徴であり、彼自身の未練に縛られているのだと悟ることになったのだ。
彼の作業がその束の一部を強化していたのだ。
彼女のいない世界に生きるということが、一体何を意味するのか。

混乱の中、修司は彼女に手を伸ばしたが、彼女の姿はどんどんと薄れていく。
やがて、月明かりも消え、庫は真っ暗な闇に包まれた。
「助けて…」という声だけが空気の中に漂い、彼はその瞬間、自分の作り上げたものが何であったのかを体感することになった。

その後、誰も修司の所在を問わなかった。
庫はそのまま放置され、人々から忘れ去られていった。
ある日、ふとした拍子にその庫を訪れた者が不思議な束を見つけ、「古い木材が使われている」と語った。
その声は耳に残り、なぜか不気味な印象を与えた。
その束そのものが、かつて彼が心に抱いていた未練の象徴であるかのように。

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