彼女の名前は桜井美咲、27歳。
美咲は仕事で忙しく、なかなか休む時間を持てずにいた。
ある日、彼女は心の疲れを癒すため、古びた温泉宿に一人で訪れることにした。
宿は静かな山奥に位置し、周囲には誰もいない。
そんな環境が、彼女の心を少しだけ軽くしてくれると期待していた。
温泉に浸かりながら、美咲は日の入りを眺めていた。
遥かに見える山々が赤く色づいていく様子は美しいが、どこか不気味さも漂っていた。
温泉宿の管理人に聞くところによれば、この温泉には「止まる」という不思議な現象があるという。
人々が温泉に入ると、時間が一時的に止まってしまうことがあると。
そんな噂を聞いた美咲は半信半疑で、しかしどこか好奇心もそそられていた。
夜が更け、温泉に一人で入っていると、まるで誰かが彼女の背後にいるような気配を感じた。
振り返ったが、そこには誰もいない。
髪が風に揺れる音に、恐れが混じった。
心臓が高鳴り、「止まる」現象に身を委ねてしまおうとした美咲だが、不安は増すばかりだった。
その晩、美咲は夢を見た。
夢の中で、彼女は温泉宿の廊下を歩いていた。
そこには、何かが彼女を見ている気配を感じる。
しかし、そんな気配を振り切るように歩き続けると、突然時間が止まったかのように全てが静まり返った。
その瞬間、彼女の目の前に一人の男性が現れた。
彼は古い着物を纏い、不気味な微笑みを浮かべていた。
「あなたも、ここに留まるのね?」と囁く彼の声は、まるで耳の奥に響いているようだ。
美咲は走り出した。
夢の中で、彼女は止まった時間の中で逃げることができず、ただ彼に追いかけられる。
背後からの彼の声が耳を刺す。
「逃げたりしても無駄だよ、ここは止まる場所だから。」
目が覚めると、彼女は汗をかいていた。
暗い部屋の中、時計はまさに夜の12時を指していた。
不思議なことに、彼女の感覚は研ぎ澄まされている。
夢の中の男性の顔が未だに脳裏に残っている。
急に不安になり、外を確認するために窓を開ける。
その瞬間、耳元で男性のささやきが聞こえた。
「また会おう、時が止まる場所で。」
彼女は恐怖に駆られ、朝が来るのを待つことにした。
だが、時間が経つにつれて、空気はますます重くなり、彼女の心臓は不規則に鼓動する。
窓の外を見ても何も見えない、ただ暗闇だけが広がっている。
時計が動いているのに、時間が進まないように感じた。
美咲の心の中に忍び寄る恐怖、そして再びあの男性に遭遇することへの不安は、彼女を劣悪な状況に陥らせた。
その後、温泉宿の管理人にこのことを相談すると、「時が止まる話は本当だが、滞在した人は誰も戻ってこなかった」と言われた。
美咲はその言葉に心を強くするが、夢の中の出来事があまりにもリアルで、離れられなかった。
彼女だけが時の流れから取り残されていくような気がした。
美咲は、ただ静かに、いつか訪れる朝を待ち続けた。
しかし、果たしてその朝が、果たしてやってくるのだろうか。