ある寒い冬の夜、駅は静まり返っていた。
人々の姿はまばらで、最後の列車が発車した後、薄暗いプラットフォームの一隅でただ一人、佐藤健一は立ち尽くしていた。
終電を逃してしまった彼は、家に帰るための手段を失い、寒さに身を縮めながら時間を潰していた。
ふと、彼の視界の端に何かが動くのを感じた。
視線を向けると、駅のホームの奥に小さな影が見えた。
それは若い女性で、彼女は一人で立っているようだった。
しかし、彼女の顔はどこか不気味で、ヒュッと冷たい風が吹き、彼女の影を不気味に動かした。
健一はその姿に引き寄せられるように少しずつ近づいて行った。
「大丈夫ですか？」彼は声をかけた。
女性は振り向いたが、彼女の目は虚ろで、まるで何かを怨んでいるかのように暗く沈んでいた。
健一は不安を感じたが、彼女が求めている助けがあるのではないかと思い、無理にでも話しかけようとした。
「ここで何をしているんですか？」
女性は一瞬黙り込み、無表情で彼を見つめていた。
その沈黙が長く続くと、不安が募る。
やがて彼女は静かに口を開いた。
「私は帰れないの…」その言葉は重く、健一の胸に響いた。
彼女は何かを隠しているようだった。
「帰れない？」健一は思わず問い返した。
彼女は微かに頷き、その手に持っていた黒いコートの裾を撫でながら、健一に近づいてきた。
「私の名前は美咲。でも、もう誰も私を知らない…」
その瞬間、健一の心に憎しみが芽生えた。
彼女の声は哀しみを含んでいたが、その奥に潜む怨念を感じたからだ。
美咲は自分の死後、誰にも知られることなく駅に残され、誰も彼女を思い出せないことに対する憎しみを抱えていたのかもしれない。
彼はその深い闇に引き込まれそうになりながらも、何とか意識を保とうと必死であった。
「私は消えてしまいたいの。誰も私に気づかない。だから、あなたも私を忘れてしまうのかもしれない…」美咲の声が徐々にかすれていく。
健一は思わず足を一歩後ろに下げた。
彼女は憎しみの念に捕らわれ、彼をもその迷いの中に引き込もうとしているのではないか。
彼は急いで駅の出口へと向かった。
逃げるように足を速める彼だったが、美咲はいつの間にか彼の背後に迫っていた。
「帰らないで！私を消さないで！」彼女の叫び声が耳に刺さる。
健一は慌てて振り返った、その瞬間、彼女の顔には不気味な笑みが浮かんでいた。
「あなたも私のように、永遠にこの場所に留まることになる！」美咲は一歩前に進むと、急にその姿が歪み、消えていった。
さながら薄暗い闇の中に沈んでいくように。
健一は恐怖に駆られ、全速力で出口を目指した。
やっとのことで駅の外に出た健一は、背後でかすかに美咲の声を聞いたような気がした。
「帰れない…誰も私を思い出さないで…」それを最後に、彼女の声は駅の暗闇に吸い込まれて消えていった。
帰り道、健一はその夜のことを思い返し、ゾッとした。
美咲は本当に存在したのだろうか？それとも、彼の心に潜む憎しみが生んだ幻影だったのだろうか。
彼は考えすぎないようにしようとしたが、駅の影が今も彼を見つめ続けているような気がして恐れを感じた。
一晩明けて、健一は何事もなかったように日常を送っていたが、心の奥底に美咲の、そして彼の持っていた憎しみの影が刻まれていることに気づかされた。
あの夜の出来事は、結局自分の心の中に住み着いたものが、消えてほしくない記憶となり、生き続けているのかもしれなかった。
