「壁の向こうの影」

昭和の終わり、都市の片隅にひっそりと佇む古いアパートがあった。
そのアパートは人里離れた場所にあり、住人は非常に少なかった。
周囲にはまばらな木々が生い茂り、薄暗い道の奥にはそのアパートの姿が隠れている。
住人は年老いた男性と若い女性の二人だけだったが、やがて女性はアパートを出て行ってしまった。
男性も少しずつ体調を崩し、誰も住まないアパートは静まり返るばかりだった。
そんなある日、近所の人々の噂によれば、アパートの壁に異様な現象が起こっているという話が広まった。

「行ってみよう」友人の信二が提案した。
「どうせ誰も住んでないんだろ?」

勇気を持った若者たちは、夜遅くにそのアパートへと向かった。
月明かりの中、薄暗いアパートの前に立つと、重苦しい静寂が彼らを包んだ。
彼らは誰もいない部屋の窓を少し覗き込み、かすかに聞こえる奇妙な音に耳を傾けた。
まるで誰かが遠くで呼んでいるような声だった。
「失った人の涙かもしれない」と智也が言った。

一緒にアパートへ入ると、感じる空気は異様で、温かさが消え失せたかのような冷たさが充満していた。
彼らは壁に耳を当ててみた。
すると、その壁からは不規則な響きが聞こえてきた。
波のように揺れ動く声が、次第に彼らの心に不安を与え始めた。
「誰かがここにいるのか?」

「もう帰ろうよ」と考える若者もいたが、信二はその場を離れたくない様子だった。
「この声は何かを伝えているんだ」と言い続け、無理に暗い廊下を進んだ。
二人の後ろで、壁が微かに揺れる音がする。
その瞬間、行く手に立ちはだかるように、誰かがいる気配を感じた。

智也が不安になって振り返ると、壁の隙間から奇妙な影が見えた。
それはあたかも人の形をした黒い影であり、彼の目をじっと見据えている。
心臓の鼓動が早くなり、彼は立ち尽くした。
「何も見えない、行こう」と信二が背中を押した。
その瞬間、走り去るように壁が揺れ動き、影が姿を消した。

それからも壁の奇妙な現象は続いた。
彼らは身の危険を感じ、アパートを後にしたが、不安は消えなかった。
家に帰った後、智也は夢の中でその影に再び出会った。
この影は彼に「大切なものを失った」とささやくように感じた。
夢の中で見るその影は、まるで失った人の姿をしっかりと抱きしめているかのように思えた。

朝が来ても、智也はその影とその声を忘れられなかった。
信二は帰ってから不自然に静かな様子で、以前とは打って変わって近寄り難くなっている。
「どうしたかわからない」と彼は口を開くことなく、無口に過ごすようになった。

数日後、智也は再びアパートに足を運ぶ決心をした。
今度は信二を誘わず、一人でその声の正体を確かめることにした。
アパートの中に入ると、何かが彼を待っているかのようだった。
冷たい空気に包まれ、耳を澄ますと、壁からうっすらとした声が聞こえてくる。
「もう、戻れない…」

智也はその声が何を意味するのか理解しようとしても、何も思いつけなかった。
失うことの怖さ、愛する人の姿を思い出しながら、彼は自分の過去を見つめ直した。
その瞬間、目の前の壁から黒い影が浮かび上がり、智也を刺すようにじっと見つめた。

次の日、智也は友人たちの前に姿を見せなかった。
彼がアパートに訪れて以来、行方が分からなくなったのだ。
アパートは静まり返り、周囲は何事もなかったかのように過ぎ去っていった。
しかし、若者たちの心には、愛する人を失った失感が満ち、必ず誰かが彼を待っているという気配が残っていた。
古びたアパートの壁は、彼らの心の奥に宿る「失」そのものを語っているかのように、静かに彼らのことを見守っていた。

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