「7号室の誘惑」

何年も前、静かな山合いにある古びた旅館が閉館されることとなった。
その旅館には、吸血鬼にまつわる恐ろしい噂が立っていた。
特にその部屋「7号室」では、何人もの宿泊客が姿を消したという。
そして、それを語る者は決して戻らなかった。

ある秋の夜、友人たちと心霊スポット巡りをしていた高橋慎二は、恐怖心を煽られるままにその旅館に忍び込むことを決意した。
仲間の中でも一番の怖がりだった慎二は、仲間たちの笑い声やその好奇心に押し流され、ただ一緒にいることが心の支えだった。

旅館に入ると、薄暗い廊下には長い年月を経た木の匂いが漂い、静寂が周囲を包んでいた。
慎二は怖い話をして過ごすつもりだったが、仲間たちはもう笑い声を立てていた。
彼らの楽しさとは裏腹に、慎二は心臓が高鳴るのを感じていた。

「7号室に行こうよ!」「お前が怖がってるからだろ!」友人たちの声が響いた。
すると、慎二の心には不安が渦巻く。
「それ、やめようよ…」そう言おうとした瞬間、ドアが引き裂くような音を立てた。
彼はその音が、誰かが出てくる合図だと直感した。

不安を抱えながらもついていくと、ドアの前で彼の友人、佐藤が立ち尽くしていた。
「なんか…変な声が聞こえる」と彼が言った。
慎二もその声を感じる。
「あの…声、なんだろう?」仲間たちはその不気味さに引き寄せられ、ドアを引き開けた。

7号室の中は冷気が充満していた。
薄暗い部屋の中央には古びたベッドがあり、壁には何かが描かれている。
よく見ると、それは数々の宿泊客が命を失ったという記録だった。
「ここに…泊まったら、戻れないって言う噂だよね」と慎二が小声で言うと、誰かが「大丈夫、大丈夫」と笑った。

その瞬間、部屋の奥からかすかな声が聞こえた。
「戻ってきて…」その声は甘く、どこか懐かしかった。
慎二はその声に引かれ、自分でも知らぬ間に一歩踏み込んでいた。
「慎二、やめろ!それはダメだ!」友人たちの声が背後から響く。
しかし、彼の身体は言うことを聞かなかった。

部屋の奥からの呼び声は次第に大きくなり、圧倒的な気配を感じ始めた。
その声に関わる気がした。
まるで、長い間失っていた何かを求められているかのようだった。
振り返ると、誰もいなくなっていた。
仲間たちの姿は消え、ただ静寂と影だけが残っていた。

「戻ってきて…」再びその声が彼を呼んだ。
恐れと好奇心が交錯し、慎二は意識を持ってその場を離れられなくなっていた。
視界がぼやけ、言葉が全く理解できない状態に陥った。
「私は…私が必要なの!」その声には、嘆きと渇望が感じられた。

どれくらいの時間が経ったのか、突然彼の目の前に女性の姿が現れた。
長い黒髪の彼女は血のように赤い唇を口に手を当てて微笑んでいる。
慎二は恐怖に立ち尽くした。
「あなた、私を覚えている?」彼女の瞳は深い闇を湛え、吸血鬼のような不思議な閃光を放っていた。

「お前は…」慎二は言葉を濁した。
その瞬間、女性の目が瞬いて、彼の心に潜んでいた恐怖が一気に押し寄せた。
「やめて!戻りたい!」と思わず叫んだ。
しかし、彼女はゆっくりと近づき、彼の手を取りながら低く囁いた。
「あなたには戻る場所がある?」

その瞬間、慎二は全てを理解した。
この女性は何度もこの部屋で彼を待っていた。
また、彼も何度も失った過去の自分を求めていたのだ。
「失ったものは戻らない」と心のどこかで叫んだ。
しかし、彼女の瞳の深い闇に引き込まれる瞬間、今一度自分を見つめ直す必要があった。

意を決して、慎二は目を閉じた。
「私は私でいたい。お前に吸いこまれることはない!」と心の中で叫び、自らの意思を強く持った。
すると影が彼を包み込むように迫ってくるが、徐々に薄れていく感覚を味わった。
彼は立ち返ることができたのだ。

気づくと、仲間たちが慌てて彼を探している声が聞こえ、そのまま旅館から出た。
「怖かったな、慎二」と彼らは笑った。
しかし、慎二は無言のまま心の奥で戦っていた。
彼は戻ったが、同時に失った何かを心に抱えたままだった。

「忘れないでいよう」と心の中で念じる。
「戻ることができたとしても、本当に戻れるのか?それは、それぞれの人の答えによる。」彼は友人たちに微笑みかけ、意識の果ての恐怖を忘れぬように心に刻んだ。
今後もその旅館の噂は耳にすることになるだろうが、彼の心には確かな一歩が残った。

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