佐藤は古い図書館の一角、使われなくなった庫に足を運んだ。
この庫は、長い間誰も近づかない場所であり、周囲には埃が積もり、ほんのりとした湿気の匂いが漂っていた。
彼は研究の一環として、古い文献を探すためにこの場所に来た。
しかし、その庫はただの静けさを持つ場所ではなかった。
入ると、耳を澄ませると微かに何かの声が聞こえてくる。
最初は風の音かと思ったが、次第にそれが言葉になり、呟くような声が耳元に響く。
「置いてけ、置いてけ…。私を棄ててしまえ…」
その声は、どこからともなく聞こえ、新たに恐ろしい感覚を彼の心に植え付けていった。
佐藤は恐れを感じながらも、その声に引き寄せられるように進んでいく。
彼は自分でも気づかないうちに、声が響いている方向に足を向けていた。
声の持ち主を探すうちに、彼は一冊の古びた本を見つけた。
その本は、ページが黄ばみ、表紙もぼろぼろになっていた。
しかし、佐藤は強い好奇心に駆られ、その本を手に取る。
すると声はさらに大きくなり、「それを開けて、私を見て…」と囁いた。
本を開くと、ページには不思議な文字が並んでいた。
その内容は、過去の人々の記憶に関するもので、心の底から忘れ去りたいと思う過去の出来事が書かれていた。
佐藤はその一行一行を読み進めるうちに、自分自身の忘れたい思い出を思い出してしまった。
彼は記憶を思い出すたびに、心を締め付けられる思いだった。
その時、突然、部屋の温度が下がり、背後の影が動いたかのような感覚を覚えた。
振り向いても誰もいない。
しかし、声は再び響く。
「私を見捨てたのか?私を棄ててしまうのか?」
佐藤はその声に恐怖を感じながらも、自分が何を忘れていたのかを考えた。
かつて病気で亡くなった妹のこと、彼が何もできなかったという後悔が心を苦しめた。
彼はその過去を抱えながら、いつの日かその記憶を棄てたかった。
しかし、この本が示すとおり、忘却は痛みを伴う選択であることを彼は理解し始めた。
「私を棄てないで…私がいなければ、あなたはどうなるの?」その声は、少しずつ優しさを帯びていった。
佐藤はその声に抵抗できなくなり、涙が頬を伝った。
彼は妹が彼にどれだけ愛情を注いでくれたか、そしてその思い出を心から消し去ることはできないと実感した。
本を閉じると、周囲の空気が軽くなったように感じた。
声は静まり、次第に冷たさが和らいでいく。
佐藤は、過去を棄てることは自分自身を奪うことだと理解した。
忘れたかった思い出も、彼の一部であり続けるべきものである。
その後、佐藤は庫を後にした。
彼は妹との思い出を抱えながら、未来を見つめ直す決意をした。
思い出は棄てるのではなく、共に生きていくものであることを胸に刻み、彼はまた新たな道を歩み出した。