深い夜、涼しい風が吹き抜ける河の畔に、彼の名は隆(たかし)。
彼は小さな村で育ち、幼なじみの藍(あい)といつも一緒に過ごしていた。
二人は何から何まで一緒だったが、ある日、藍が突然の事故で姿を消した。
その悲しみの中で、隆は日々を送っていた。
それから数週間が過ぎたある晩、隆は河のそばに佇んでいた。
静かな星空の下、川の流れがゆったりとした音を立てていた。
思い出すのは藍との楽しかった時間。
その頃の笑い声や、共に見た夢、美しい思い出が胸を締め付ける。
しかし、彼の心には一つの感情が芽生えていた。
それは、藍を失ったことへの「義」だった。
隆は、なぜ自分だけが生き残ったのかと深く思い悩んでいた。
ある晩、隆は河に引き寄せられるような感覚を覚えた。
いつもと変わらない光景が、まるで違う世界に感じられた。
その瞬間、藍の声が聞こえた。
「隆、私を助けて…」
振り返ると、彼の目の前に藍の姿があった。
しかし、彼女の顔は白く痩せ、目はどこか虚ろだった。
驚きと恐怖に震えながら、隆は藍に近づこうとしたが、手が止まった。
藍は河の中に沈んでいるように見え、必死にこちらを手招きしていた。
「私を救って、隆。お願い…」
隆の中で何かが揺れ動いた。
彼は藍を助けたいと思い、手を伸ばしたが、彼女の姿はどんどん川の水に溶け込んでいくようだった。
恐怖心が強まり、心の中で「本当に助けるべきなのか」という疑念が湧き上がる。
河は彼女を奪った場所だった。
果たして、彼女を助けることで何が変わるのか。
そして、彼の心が求めているのは、本当に「義」なのか。
次第に、藍の声が弱まっていく。
隆は彼女を見捨てるのか、それとも何かを犠牲にしてでも救うのか。
その選択に、彼は悩み続けた。
しかし、目の前の彼女がどんどん消えていく様子に胸が掻きむしられる思いだった。
その時、隆の心に一つの決意が生まれた。
彼は河へと足を踏み入れる。
ひんやりとした水が足元をつたう。
藍のもとへと進むにつれ、彼女の姿はより曖昧になっていく。
冷たい水が膝まで浸かると、隆は叫んだ。
「藍、待っていてくれ!助けるから!」
藍は振り向き、微笑んだように見えたが、その表情には陰りがあった。
隆は更に川へと進む。
胸まで水に浸かり、彼は藍の手を掴もうとした。
しかし、手が触れた瞬間、別の感覚が彼を襲った。
藍の手は温かさを失い、冷たく湿った影に変わった。
彼女の声がようやく硬直してきた。
「ごめん、隆。私を救うことはできないよ…」
隆は驚愕し、心がざわめいた。
藍の姿がいくら手を伸ばしても、浮かぶことはなく、どんどん河の底へ消えようとしていた。
彼は必死に彼女を掴もうと奮闘したが、水は彼を強く引き寄せ、彼女の姿を遠ざけていく。
その瞬間、隆は理解した。
彼女を助けることが、実は彼自身をも危険に晒すことだったのだ。
藍は彼を今も試しているのかもしれない。
過去を受け入れず、見えない義務を感じ続けている彼自身を。
結局、隆は河の水に押し流されていく。
彼は藍を助けることはできなかった。
そこに立ち続けたのは、失ったものへの執着とそれに囚われた自分だけだった。
水が彼を包み込み、浸食するように、彼の存在は徐々に消えていった。
今も川の流れには、二人の思い出が絡まりながら漂っている。
隆の声が静かに河に響き渡る。
「ごめん、藍…。」