「消えゆく宿の影」

商業施設が立ち並ぶ繁華街の片隅に、古びた宿がひっそりと佇んでいた。
その名は「鳳凰宿」。
かつては賑わいを見せたが、不景気に伴い次第に客足が遠のき、人々の記憶から少しずつ忘れ去られていった。
しかし、宿には一つの噂があった。
夜の宿泊者の中には、自らの過去と向き合い、消えてしまう者がいるという。

そんなある日、一人の若い女性、加奈子が宿を訪れた。
彼女は疲れた表情を浮かべながら、カウンターで宿の主である老人にチェックインをお願いした。
老人は、長い髭を揺らしながら彼女を見つめ、「ここは色んな宿泊客を見送ったものじゃ。覚悟はできておるか?」と声をかけた。
加奈子はその言葉に戸惑いを感じながらも、「はい、別に大丈夫です」と返事をした。
しかし、内心では、自分の選んだ道を振り返りたかったのだ。

宿に入ると、壁には数えきれないほどの宿泊客の写真が飾られており、その中の何人かは加奈子と同じような疲れた表情をしていた。
その不気味な雰囲気に圧倒されながらも、彼女は自室に向かい、ベッドに腰を下ろした。

夜が深まり、周囲が静まりかえってくる。
加奈子は、ふと目を閉じて過去を思い出す。
仕事のストレスや人間関係の悩み、そして、未練が残る恋愛のこと。
彼女は心の中にある様々な感情と向き合おうと決意した。
すると、突然、部屋の隅からかすかな声が聞こえてきた。
「忘れたいのか、忘れたくないのか…」

その声は、まるで彼女の心の中に入り込んできたようだった。
加奈子は驚き、目を開けた。
その瞬間、部屋の温度が急激に下がり、何かが彼女の周囲に漂っている気配を感じた。
恐怖が彼女の心を掴み、ベッドから立ち上がることもできなかった。

声は続ける。
「あなたの抱える過去を、ここで解放しなければ、消えることはできない。」

加奈子は悩んだ。
自分の過去と直面するのが怖い。
しかし、そうしなければ本当に消えてしまうのだろうか。
彼女は恐る恐る声に問いかけた。
「どうすれば解放されるの?」

すると、目の前に薄ぼんやりとした影が現れた。
その影は、彼女の心の内側を映し出すかのように、様々な映像を映した。
昔の甘い思い出や、辛い出来事、自分が避けてきた感情。
影はそのすべてを語り始めた。
「これらは、あなたが隠してきたもの。今こそ、受け入れ、手放す時なのだ。」

加奈子は、その映像を見つめながら、涙が頬を伝った。
彼女は苦しみを抱えながらも、心の奥底にある本当の自分を見つめ直すことを決意した。
「私は過去を忘れたくない。私の一部だから…」

影は優しく微笑み、加奈子の元に近づいてきた。
「その言葉を待っていた。あなたが過去を受け入れれば、解放されるだろう。」

その瞬間、加奈子の体中に温かい光が満ちあふれ、彼女の心に重くのしかかっていた感情がヒラリと解けていくのを感じた。
彼女のまわりの空気が柔らかくなり、影は少しずつ形を変えていった。
周囲の色彩が鮮やかになり、宿の中に優しい明かりが灯った。

「私はもう怖がらない。自分の過去を受け入れる。」加奈子が心からそう唱えた瞬間、影は完全に消えてしまった。
その後、彼女は恐れや後悔を抱えた自分自身を解放し、新たな一歩を踏み出す準備ができた。

夜が明けると、加奈子は静かな感覚に包まれ、宿を去ることにした。
背後には、再び静まり返った鳳凰宿の姿があったが、彼女にとってそれはもうただの宿ではなく、自分の過去と向き合った場所となったのだった。

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