ある秋の夕暮れ、東京から少し離れた洋館に住む長谷川明は、何の前触れもなく始まった不思議な現象に戸惑っていた。
この洋館は、かつては名士の邸宅として栄えた場所だが、時代とともに忘れ去られ、今は静まりかえった死の空間のように見えた。
明は実家を離れ、洋館に一人で住み始めた。
大学の研究のため、古い書物の整理や、歴史的な証言の収集を行う日々だった。
しかし、ある晩、彼が古い日記を読み進めていると、文字が徐々に浮かび上がってくる奇妙な現象に直面した。
最初は薄暗い光の加減だと思ったが、読み取れる内容は何か別のものを伝えようとしていた。
「私の名前は綾香。この家で起きた出来事を記録しています。」
明は驚いた。
その日記は、明が住んでいる洋館の元主人であり、数十年前に亡くなった女性のものであった。
彼女は恋人との悲しい別れを綴り、その後、この洋館を去らざるを得なかったことが書かれていた。
「彼は私を愛してくれていたけれど、私の親が二人の関係を認めなかった。最期の日、私は彼を忘れないと誓った。けれど、時間が経つにつれて、彼の記憶が薄れていくのが怖かった。だから、この日記を書き続けたのです。」
明は次第に、彼女の思いに引き込まれていった。
そして、彼女の悲しみや切なさを感じながら、記憶の中の彼女に支えられるようになった。
しかし、日記を読み進めるうちに、そこに隠された恐ろしい秘密に気付くことになった。
「もし私を忘れないでいてくれたら、あなたも私の存在を思い出せるはず。だけど、もし私が忘れ去られてしまったら、私はこの家に閉じ込められ、永遠に孤独な存在になるの。」
その言葉が明に響いた瞬間、周囲の空気が重くなり、薄明かりの中、綾香の形が現れた。
彼女は優雅な衣装に身を包み、燃えるような瞳で明を見つめていた。
明は心臓が高鳴るのを感じながらも、まるで強く惹かれるように、彼女のもとに近づいていった。
「綾香さん…あなたの記憶が本当に浮かび上がってきたのですか?」
彼女は静かに微笑み、そしてその空気が一瞬にして変わった。
彼女の姿が蝶のように揺らぎ、明の記憶の中に浸透していく。
それはまるで、彼の心の奥底に埋もれていた不安や喜び、すべての感情が流れ込んでくるかのようだった。
「あなたが私を思い出してくれることで、私は少しだけ自由になれるの。」
明は彼女の言葉に胸が締め付けられるような感覚を抱きながら、彼女の思いを知ることができた。
しかし同時に、彼女が抱える恐怖にも気づいた。
彼女は忘れ去られることを恐れている。
その証として、彼女の記憶と並行するように、過去の出来事が次々と明の目の前に映し出されていった。
様々な記憶に押し流され、明は彼女の恋人との別れの瞬間を見てしまう。
愛が深く、切なさが強烈で、明はその感情を持て余すことになった。
「私が忘れかけた記憶を、あなたに思い出させてもらったのですね。その代わり、私もあなたを忘れません。」
明は彼女に約束し、その瞬間、彼女の目が喜びで輝いた。
彼女はかつての自分を取り戻し、少しずつ薄れていく記憶の中に、明の存在を確かに刻むことができたのだ。
しかし、時が経つにつれ、明はこの日の出来事が夢なのか現実なのか分からなくなった。
彼はある夜、彼女が日記に記したように、再び彼女に呼びかけた。
「忘れないよ、綾香さん。」
その瞬間、静寂が訪れ、洋館は再び静まり返った。
彼女の声はもう聞こえない。
しかし、明は心の奥底で、彼女の存在を感じていた。
彼女が彼の日常にいて、共に歩んでいるような感覚が消えることはなかった。
それは、忘れ去られることの恐れを抱いた彼女との絆だったのだ。
明は、洋館の静けさの中、繰り返し彼女への思いを心に刻んでいくのだった。