静かな山あいにある泉、その名前は「癒しの泉」と呼ばれていた。
人々はその美しい水が病を癒すという噂を聞きつけ、遠方から訪れる者も少なくなかった。
しかし、地元の人々はこの泉には決して近づかないようにしていた。
なぜなら、そこには不穏な過去が隠されているからだ。
ある日、若い女性、綾乃は、友人の誘いに乗ってこの泉を訪れることにした。
彼女は日々のストレスや不安から解放されるために、少しでも癒しを求めたかった。
綾乃は友人とともに泉の周りを散歩し、清らかな水の流れに心を癒される感覚を味わった。
「この水、本当にきれいね。」友人の美咲が言った。
「うん、すごく透き通ってる。」綾乃は答えた。
まるで心が洗われるような気持ちになっていた。
しかし、この美しい景色の裏に潜む真実を知らずに過ごす彼女たちには、何かが待ち受けていた。
「ねえ、あの伝説の話を知ってる?」美咲が突然言った。
彼女は泉の伝説について語り始めた。
「この泉には、かつて若い女性が住んでいたんだ。彼女は恋人を待ち続けていたけど、恋人は事故で亡くなってしまった。それでも彼女は、結局その泉に自ら飛び込んで姿を消したと言われている。彼女の魂は水の中にいて、今でも訪れる人々を癒していると。でも同時に、彼女は忘れ去られることを恐れていて、訪れる者が誰か一人を連れて行こうとするんだ。」
綾乃はその話を聞き、「そんなこと本気で信じるの?」と笑ったものの、心のどこかで不安を感じた。
日が沈み、暗くなり始めた頃、二人は泉の真ん中にある小道を歩いていた。
その時、急に風が吹き荒れ、周囲が不気味な静けさに包まれた。
無意識に綾乃はその場から離れようとした。
「綾乃、待って!何か見つけたかも!」美咲が叫ぶと、急に周りの水がざわめき出した。
その瞬間、泉の水面に映る自分の姿が変わり始めた。
綾乃は息を飲んだ。
水面に映ったのは、自分の過去の映像だった。
彼女が大切に思っていた人々の笑顔、楽しかった記憶が流れた。
しかし、次第にその映像は悲しみに変わり、別れの瞬間が映し出される。
彼女は自分が心の奥底で抱えていた未練を思い出した。
「記憶…私の記憶が…」綾乃はつぶやいた。
その時、背後から不気味な声が聞こえた。
「私を…忘れないで。」
振り返ると、水の中からぼんやりとした女性の姿が浮かび上がっていた。
彼女は透明な肌を持ち、虜のように美しく、しかしどこか悲しげでもあった。
「あなたは誰?」綾乃は恐怖と好奇心が入り混じった声で問うた。
女性の目はどこまでも深い悲しみを湛えていた。
「私は花。愛する人を失い、泉に身を投げた。私が持っている癒しの力は、過去の記憶から生まれるもの。けれど、私を忘れないでほしい。」
その声は、正直な心の奥底に響いた。
綾乃はこの女性が自分と同じように愛するものを失っていると理解した。
彼女はこの泉にいることで、その悲しみを癒している。
しかし、その代償に忘れられることが恐ろしかった。
「私はあなたを忘れない。」綾乃は思わず口に出した。
彼女はこの女性の思いを受け入れ、心から共鳴する感覚を覚えた。
綾乃が一歩後退して美咲の元に戻ると、突然、泉の水流が激しくなり、暗闇が広がった。
彼女は美咲の手を引いてその場を離れようとした。
心臓が高鳴り、恐怖が押し寄せてきたが、彼女は後ろを振り返ることができなかった。
二人が泉を離れた後、綾乃は決してその経験を忘れないことを誓った。
彼女は癒しの泉が持つ力を理解し、時には過去の記憶を抱えたままでいることも必要だと心に刻んだ。
「私たちはここを去るけれど、絶対に忘れないから。あなたの思いも、一緒に持ち帰るから。」綾乃はその場から遠ざかりながら、心の中で女性に約束した。
泉は静かに彼女たちを見送り、再び穏やかな水面が広がっていった。
その水面には、消えゆく記憶と、新たに生まれる希望が共存していた。