「鏡の底に映る己の影」

えは、古い家に住むようになって数ヶ月が経った。
庭には広がる雑草や枯れた木々が一面に広がり、普段は手入れをすることもなく静まり返っていた。
彼女はこの静けさがどこか落ち着くと感じていたが、ある日、庭の奥に異様なものを見つけてしまった。

その日の午後、えは庭を掃除することに決めた。
日差しが少しずつ和らぎ、夕方の光が庭を優しく照らしていた。
雑草を引き抜き、枯れた木の枝を整理していると、奥の方から微かに光るものが目に入った。
好奇心に駆られたえは、その光を求めて足を進めた。

近づくにつれ、彼女はそれが一つの古びた鏡であることに気づいた。
鏡は地面に埋もれ、見るからに長い間放置されていた。
周囲は草に覆われ、その上には何かしらの不気味な力が宿っているかのようだった。
えはその鏡を引き抜き、恐る恐る目をみやる。

鏡の中に映った自分自身は、ただの映り込みとは違う何かを感じさせた。
えの瞳は、何か見えない力に引き寄せられるように、どんどん深く、暗い色に変わっていく。
彼女の心の奥底にある不安や自信の無さが、鏡の中に映った瞳に色濃く映し出されていくようだった。

恐怖を感じつつ、彼女はその場を离れたが、夜になるにつれ、その鏡のことが頭から離れなくなった。
ふとした瞬間、何かが彼女を呼んでいるような気がした。
このまま放置するのは怖いと、また庭へと向かう決意をした。

庭に戻ると、今度は不気味な静けさが広がっていた。
薄暗い中、その鏡は一層光を放っており、まるで彼女を待っているかのようだった。
えは鏡の前に立つと、自らの瞳が鏡に映り込むのを見つめた。
すると、急に彼女の瞳に異変が起きた。

鏡の中の自分の瞳が、次第に黒く塗りつぶされていく。
その瞬間、何かがえの脳裏をかすめた。
自分の心の奥にある暗い部分、他者との繋がりを失うことへの恐れが、彼女の没入を招いていたのだ。
恐怖から逃れられないまま、えは鏡に引き寄せられていった。

その時、鏡の中から薄い声が聞こえた。
「己を知れ、己を忘れるな」。
えは恐怖と抵抗を感じながらも立ち尽くした。
自分自身の暗い秘密やトラウマが、まるで声となって彼女を責め立てているかのように思えた。
彼女はその声に囚われ、「己」を理解しなければならないという強い衝動に駆られた。

しかし、答えは見つからなかった。
恐怖が心を支配する中で、えの視覚は鏡の中の景色に映し出された他者と自分との乖離を目の当たりにした。
「会いたい、でも何かが違う」と感じながら、彼女は最後の抵抗を試みた。

やがて、えは鏡の前で断念した。
自らの瞳が反映する世界から目を逸らし、頭を抱えた。
「もう、見たくない」と呟く。
その瞬間、不気味な静けさが訪れ、薄明かりが庭を満たした。
彼女はなんとかその場を後にし、家の中へと走った。

その夜、えは互いに反響するように響く声を夢に見た。
それは「己を知れ、己を忘れるな」と繰り返された。
深い眠りに落ちることができず、朝までその声に付き纏われ、彼女は精神的に疲弊してしまった。

時が経ち、えはあの鏡に二度と近づかなかったが、自分自身と向き合うことから逃げることはできなかった。
庭には今も、無造作に放置された鏡があり、その向こう側で映し出されるのは、いつも彼女の脆い心。
彼女の瞳は、その暗さを愛し、恐れているのだと、気づくのに時間がかかった。

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