ある静かな村の外れに、古いアパートがあった。
かつては賑わっていたというその場所は、今や人が住む姿もなく、ひっそりとした雰囲気が漂っている。
村人たちは誰も近づかないようにしていたが、唯一、田中健一だけはそのアパートにこだわりを持っていた。
健一は、昔の思い出が詰まった場所だった。
家族がかつてそこに住んでいたからだ。
だが、ある日、彼はそのアパートで不思議な現象に遭遇する。
夜、夢の中で声が聞こえてきた。
それは母の声のようで、何かを訴えかけている。
思い詰めた健一は、夢に誘われるように、再びそのアパートに向かうことにした。
月明かりの中、アパートの玄関を開けた健一は、見覚えのある廊下に足を踏み入れた。
ところが、彼の心にずっしりとした重圧がかかり、心のどこかが崩れていく感覚を覚えた。
この場所には、かつての温もりが今は忘れ去られた冷たさに変わっていた。
静寂を破るかのように、健一は懐かしい部屋に近づいていく。
そこには、母が愛用していた古い椅子が残されていた。
思い出すのは、母がいつもそこに座って、彼に優しく声をかけていた日々。
だが、今はその椅子は、ただの物体でしかなかった。
健一は思わず涙を流した。
その瞬間、突然、周囲の空気が変わった。
部屋の隅に立っていた影が、ゆっくりと動き出したのだ。
健一は息をのんだ。
そこには、明らかに人の形をした存在が立っていたが、その顔は暗闇に隠れて見えなかった。
「助けて……私を解放して……」声が響く。
まるで母の声がそこから発せられているかのようだった。
しかし、その声は確かに健一に向けられていた。
彼は震えながらも、その影に近づいていった。
すると、影は崩れ落ちるように消えた。
健一はその跡を追って廊下に戻るが、心に一つの疑念がよぎった。
母が何かを訴えているのか？彼は思わず再びアパートに来ることを決意した。
数日後、再びそのアパートに足を運ぶと、すでに何かが変わっていた。
建物が崩れかけており、壁には奇妙な模様が浮き出ていた。
そして、部屋に入ると亡くなった母の姿が見えた。
彼女は微笑んでいるが、その目はどこか悲しげであり、健一は感じた。
彼女が何かに囚われていることに。
「私を助けて」と、もう一度その声が響く。
健一は恐怖を抱えつつも、決断を下した。
母を助けるためには、この影の正体を明らかにしなければならない。
しかし、孤独に戦うことは難しく、彼は一人でその影を追いかけるしかなかった。
次の訪問では、彼は心の準備を整えていた。
アパートの奥深くに進むにつれて、影がその正体を現してきた。
それは、母の失われた記憶から生まれたものであり、彼女がかつて自らの手で封じた「何か」だった。
母が抱えていた苦悩を受け継いでしまったのだ。
「解放して……」と影が叫ぶ。
健一は命をかけてその影と向き合った。
彼は母の記憶をたどり、彼女の本当の願いを理解することに成功した。
だが、その瞬間、心のうちで何かが崩れかける。
彼女を解放するために、自らの存在も消え去る危険があった。
最後の決断を下した瞬間、全てが真っ白になり、彼は消えてしまった。
その後、村人たちはあのアパートが崩れ去るのを見た。
廃屋の記憶と共に、田中健一という名前も消えてしまった。
数年後、村の人たちはその場所を通ると、時折母の声が聞こえてくることに気がついた。
しかし、もう誰が助けを求めているのかは誰にもわからなかった。
