ある静かな秋の夜、酔いにまかせて帰宅途中の田中は、暗い道を進んでいた。
月明かりも薄く、周囲は静寂の中に包まれていた。
彼はその道を毎日通っていたが、今夜はいつもとは違った。
何か不穏な気配を感じていたからだ。
「こんな時間に歩くべきじゃないな…」独り言をつぶやきながら、田中は足を早めた。
その時、彼の背後から微かに足音が聞こえてきた。
振り返ると、暗がりに誰かの影が見えた。
田中は一瞬ハッとしたが、何も聞かなかったふりをしてそのまま進んだ。
足音もすぐに遠ざかっていくように感じた。
しかし、次の瞬間、またもや足音が近づいてくる。
今度ははっきりとした男性の足音だった。
そして、それに続いて中程度の声が耳に届いた。
「待て…、待ってくれ…」その声はどこか掠れたようで、田中の心に不安を募らせていく。
田中は思わず走り出した。
息を切らしながら道を疾走すると、背後からその声が迫る。
「行かないで!俺を一人にしないで!」叫ぶ声は無情に彼を追いかける。
田中は足音が近づいてくるのを感じ、全速力で道を走った。
しかし、どうしてもあの声が振り払えなかった。
彼は何とか民家の明かりが見える方へと進んだ。
ほっと胸を撫で下ろすが、振り返ると影はすぐ後ろに迫っていた。
人影は黒ずんだ服をまとい、田中に向かって手を伸ばしている。
「俺を助けてくれ!」その時、田中は彼の顔を見た。
顔色は異常に青白く、目は真っ黒だった。
その瞬間、田中の中で何かが切り替わった。
彼は逃げるのをやめて、声をかけた。
「君は誰だ?何があったんだ?」その問いかけに、影は一瞬驚いたようだったが、すぐにその表情は悲しみに変わった。
「俺は…、失ったんだ。大切なものを…」と、影は呟いた。
田中はその様子が痛ましくてたまらなくなった。
「大切なもの…?失ったものは戻らないけど、何か手伝えることがあるかもしれないよ。」田中は思わずそう言っていた。
無我夢中の激しい心の中で何かの共鳴が生まれたからだ。
影はしばらく黙り込んだ後、朦朧とした口調で言った。
「俺にはもう救いはない。だけど、君に何かを託したい…。」その声は徐々に消えていく。
田中はその言葉に胸が痛んだ。
影の思いを受け止めきれないのに、何故か自分の中で義務感のようなものが芽生えた。
そして、影はさらに続けた。
「あの道から離れることで、全ては変わるかもしれない。君は…、必ず元に戻るべき道を選べ。」その言葉が耳に残り、田中は恐る恐る道を進んだ。
先ほどの影は消え、彼は一人の道を進んでいく。
しばらくの間、彼の心は穏やかになり、影との会話が現実だったかどうかが曖昧になった。
しかし、時折、背後からうっすらと足音が聞こえてくる。
田中は振り返ることなく、まっすぐ前を見据え続けた。
失ったものは決して戻らないが、彼には今、選ぶべき道がある。
懸命に、その道を進み続けることで、いつか少しでも影の苦しみを理解できるかもしれない。
道は長く険しかったが、彼は一歩ずつ進んでいった。