「忘却の淵に響く声」

深夜、静まり返った病院のホール。
普段は賑わうはずのその場所は、今は無人で、薄暗い照明だけが微かに心強く彼女を包み込んでいた。
看護師の佐々木美佐は、夜勤終了のタイミングを待ちながら、心の中で不安を感じていた。
ここ数日、何度も同じ夢に悩まされていたのだ。

それは、記憶の中の薄れゆく笑顔たち。
美佐は自分が大切に思っていた友人たちの姿を夢の中で見ることが多かった。
その友人たちは、彼女の記憶の中で、いつも笑い合っていた。
しかし、夢の中の彼女たちは皆、どこか悲しげで、どこか遠くに行ってしまいそうな気配を漂わせていた。
彼女はその光景に対し、常に不安を覚えていた。

「また、あの夢が見そう…」美佐はため息をつき、自分の心に潜む恐れと向き合った。
すると、その瞬間、病院の奥からかすかな声が聞こえてきた。

「みさ…」

その声は子供のようにか細く、しかしどこか懐かしい響きを持っていた。
美佐は思わず振り向いた。
誰もいないはずの病院で、あの声が続けて響く。
彼女の心臓が鼓動を速める。
まるで、記憶の中の友人たちが助けを求めているような気がした。

「誰かいるの…?」美佐は声を出したが、返事はなかった。
今度は自分の胸がひどく苦しくなった。
彼女は思わず奥へと足を進め、声の主を探そうと決意した。
しかるべき廊下を進むにつれ、周りの空気が変わり、それに伴うように、記憶のフラッシュバックが襲ってきた。

彼女の心に残る、過去の幸福な時間。
友人たちとの遊びや笑い声が、次第に夢の中でも感じることのできた懐かしさへと変わっていく。
だがその一方で、彼女はその友人たちを失ったことをも忘れてはいなかった。
様々な思いが胸を締め付ける。

奥の部屋に近づくにつれ、声はクリアになっていく。
彼女はそのドアを開くと、そこに現れたのは、幼い日の友人、香織だった。
香織の表情はどこか優しく、しかし悲しげであった。
美佐は驚きで声も出なかった。

「みさ、会いたかった…」香織は微笑みながらも、目に涙をたたえていた。
「あなたが忘れたくないこと、置いてきたものがあるの。私たちを思い出して、お願い…」

美佐は言葉を失い、ただ香織を見つめ続けた。
心の深いところで、忘れていた感情や思い出が目覚めていくのを感じていた。
香織の後ろには、他の友人たちの姿も現れ、彼女はその一瞬にかつての日々を思い出したのだった。

「私たちを忘れないで…」香織の声が心に響く。
その声は、決して消え去ってはならない印となって、美佐の心の奥に刻まれるように感じた。

彼女は驚きと戸惑いの中で、少しずつ自分の記憶を取り戻し、涙が自然に溢れてきた。

「ごめん…ごめんね、香織。」美佐は声を絞り出し、香織の存在がどれだけ大切だったのかを思い知った。
「私、あなたたちを忘れたくなかった。なのに…」

「もう大丈夫。あなたの心の中に、私たちは生き続けている。」香織は微笑み、そして彼女の手を優しく握った。

だが、賑やかな笑い声が病院の静寂を破ることはなかった。
香織の姿は、次第に薄れていき、彼女の指先から香織の影が消えていくのを見守りながら、美佐はその瞬間を心に刻んだ。

「もう一度会える、その日まで、忘れないから。」彼女の心の中で誓いを立てた。
その瞬間、病院のホールには、今までの静寂が戻り、再び一人だけの空間に包まれた。

だが、彼女の心には、あの大切な思い出と、友人たちの存在がしっかりと印として残ったのだった。
心の奥に抱えた記憶は、決して消えることはないと、美佐は確信したのだった。

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