夏のある夜、田中は一人暮らしの古い家で静かに過ごしていた。
薄暗い廊下に響くのは、時折の風の音だけだった。
だが、その日は何かが違っていた。
電気がチラチラと瞬き、部屋の片隅にある古い鏡に映る自分の姿が、わずかに歪んで見えた。
田中は何か不吉な予感を抱きながら、リモコンでテレビのスイッチを入れ、音を気にしないように努めた。
その時、突然、家中の電気が消えた。
太陽が沈んだ後の闇が一気に押し寄せ、田中はあたりの様子を見渡した。
仕方なくスマートフォンのライトを点け、周囲を照らしながら、何が起こったのかを確認しようとした。
音も無くなった静寂が、逆に彼の心をざわめかせる。
電気のトラブルはこの古い家ではよくあることだったが、何かが不気味に感じた。
その夜、田中はふと寝室の方に目をやった。
そこには、何かがあるようだった。
影が、徐々に彼の方へ近づいている。
心臓の鼓動が速くなる。
彼は目を細め、闇の中をじっと見つめた。
その瞬間、彼の胸を締め付けるような寒気が走った。
影は女性のように見えたが、顔ははっきりとは見えなかった。
「田中…」
かすれた声が、部屋の中に響いた。
田中は恐怖で動けない。
記憶の奥底に、何かが呼び起こされる。
おそらく、彼が子供の頃に聞いた話。
古い家の主に、彼の家族の魂が宿っていると言われていたことを。
「私を思い出して…」
声が続く。
田中は震える手でスマートフォンを持ち、ジッと影を照らす。
すると、女性の顔がぼんやりと浮かび上がった。
それは、彼の祖母だった。
彼は目を見開く。
幼い頃、よく遊んでもらったあの優しかったおばあちゃんが、こんな形で現れるなんて。
「大丈夫、私よ…」彼女の声は再び響く。
だが、その声には明らかに何かが混じっていた。
魂が、彼に何かを伝えたいのだろうか。
「おばあちゃん、何があったの?」田中は思わず口を開いていた。
「この家は、私の魂が安らぐ場所…だけど、闇に飲まれようとしている。あなたがこの家を離れない限り、私もこの場所からは出られないの…」彼女は目を閉じ、さらに近づいてきた。
田中は不安に駆られた。
自分がこの家を手放すことを考えたことがなかったが、今は勇気が必要だと感じていた。
「私は、変わりたい。おばあちゃんがこの家にいることが辛いのなら…」
彼女は静かに頷いた。
瞬間、部屋が一瞬明るくなり、闇が束の間、退いた。
田中はこの家を出るという決意を固めた。
しかし、彼には、家族との思い出が詰まった場所を手放すことが本当にできるのか、深い葛藤が残っていた。
その後、電気が復旧し、田中は目が覚めたかのような気分で目を凝らした。
だが、彼の心の奥に、もう一つの決意が生まれていた。
田中はその家を後にし、引越しの準備を始めた。
彼の祖母を心に持ちながら、この選択が正しいことを信じて。
彼は新しい家で、新たな思い出を作ることができる。
この夜の出来事は、彼にとって一つの魂の解放となったのだ。