東京都内のある古びたアパート、そのフロアの一室が舞台だった。
部屋の中は色褪せた壁紙と、長年の使用感が漂う家具に囲まれ、どこか薄暗い雰囲気を醸し出していた。
住人の佐藤直樹は、今月末に行われる友人の結婚式のために、久しぶりに家に帰ってきた。
部屋の中に入ると、直樹は何かが違和感を覚えた。
普段は整頓されているはずの家具が、微妙に乱れているように見える。
心のどこかで不安が広がり、彼は一瞬立ち尽くした。
しかし、気を取り直して部屋を整理し始めた。
しばらくして、押し入れの奥から古い日記帳を見つけた。
見覚えのない名前が書かれているその表紙に、彼の興味が引かれた。
日記を開くと、そこには「高橋優子」と名乗る女性の思い出が詰まっていた。
彼女は数年前、直樹のアパートの同じフロアに住んでいたが、その後、不幸な事故に遭い、命を落としていた。
日記には彼女の日々の思いや、当時の住人たちとの関わりが克明に綴られていた。
読むうちに、その優しい言葉は直樹の心に強く響いてきた。
だが、日記の終わりに近づくにつれ、優子の気持ちが次第に暗いものに変わっていくのを直樹は感じた。
独りぼっちの孤独感や、過去の思い出に囚われていく様子が描かれていた。
そして、最後には「私の心の中にけものが潜んでいるの。独りではもう耐えられない」という、まるで助けを求めるような文があった。
直樹は日記を閉じ、思わずため息をついた。
その瞬間、部屋の明かりが一瞬暗くなり、彼は背筋を凍らせた。
何かが近くにいる。
その直感が強く働く。
恐る恐る振り返ると、彼の目の前には影のような人影が立っていた。
顔は見えなかったが、その存在感はすぐに彼に恐怖を与えた。
「助けて…」というか細い声が彼の耳に届く。
優子の声だった。
直樹は混乱し、立ち尽くしたままだった。
彼女の求める助けには何が必要なのか、判断がつかない。
しかし、心の奥深くで何かが迫ってくるのを感じていた。
彼は再び日記を開き、その内容を再度読み返した。
その中には、彼女が好きだった場所や思い出が書かれていた。
思い出の場所—それはアパートの近くにある、小さな公園だった。
優子が日記の中で、心の安らぎを見出していた場所だ。
その公園へ行くことが、もしかしたら彼女を救う手掛かりかもしれないと直樹は感じた。
心のどこかで、もう逃げたくないという気持ちが芽生えた。
直樹は公園へ足を向けた。
薄暗い夕暮れの中、彼はそこに佇む優子の姿を捉えた。
彼女の目は、虚ろでどこか悲しげだ。
近づくと、彼女は瞬き一つせず、紫の花束を手にしていた。
「私には、もう一度生きたいと思う勇気がないの」と彼女は呟いた。
直樹は驚く。
その言葉の真意を理解するのが難しい。
彼女が何を望んでいるか、直樹は知りたかった。
彼は思いを込めて花束を差し出した。
「これ、あなたの好きだった花。ただ、忘れないで。いつでも、あなたは誰かに思われてるよ。」
彼女はその花を受け取ると、静かに微笑んだ。
すると、瞬間、周囲が明るくなり、彼女の姿が薄れ始めた。
直樹は心の底から、「あなたのこと、忘れたくない」と叫んだ。
公園から帰る道中、彼は心に温かい感覚が残っているのを感じた。
優子は何かを凌いだのだろうか。
この感覚がいつまでも続けばいいと願いながら、彼はその夜、安らかに眠りについた。