徳は、雪深い冬のある夜、故郷の山里に帰省することにした。
雪はその年、特に多く降り積もり、静寂が村を包み込んでいた。
この村は、幼少期の徳にとって思い出深い場所であり、家族との温かい日々があった。
しかし、彼の心には一つの喪失がひっかかっていた。
数年前、母が病に倒れ、静かにその生涯を閉じてしまったのだ。
久しぶりに帰る実家は、薄暗く静まり返っていた。
雪が羽毛のように柔らかく積もり、庭や屋根を覆っている。
玄関を開けると、玄関マットが雪を吸い込むように音もなく踏みしめ、徳は心の奥にある悲しみを感じた。
母がいない家は、まるで骨だけになったような無機質な空間だった。
その晩、徳は家の中で独り、母の思い出を振り返りながら過ごしていた。
あの頃、冬になると母が作ってくれた温かいおでんや、雪の中一緒に遊んだクリスマスのことが鮮やかに蘇る。
しかし、いつからかその思い出は、彼を訪れる喪失感と重なり始めていた。
夜が深まるにつれ、外の雪は一層激しさを増し、風が家の外壁を打ち鳴らしていた。
突然、徳の耳に不思議な音が響いた。
やわらかな声が、どこからともなく聞こえてくる。
「おかえりなさい…」「徳…」その声は、確かに母のものだった。
恐れと期待が入り混じり、徳は声の方へと足を運ぶ。
リビングへ進むと、そこには母の姿がぼんやりとした光の中に佇んでいた。
白い着物を身にまとい、優しく微笑んでいる。
徳は驚きと同時に感情を抑えきれず、涙がこぼれ落ちた。
「母さん…、本当にあなたなの?」声を震わせながら尋ねる。
「そうよ、徳。帰ってきてくれてありがとう。」母はそのまま微笑む。
冷たくなった心が温もりで包まれ、彼は思わず母の元へ駆け寄りたくなる。
しかし、母の姿は近づけば近づくほど、雪のように薄れていく気がした。
「でも、何故こんなところに?あなたはもう…」急に不安がよぎり、言いかけた言葉を飲み込む。
母はその問いには答えず、「徳、あなたは私を忘れないでよ」と強く言った。
その言葉は、どこか重苦しさを感じさせた。
「ずっとこの家を守ってきた。帰ってくるのを待っていたの。」母の声は徐々に冷たい風に溶け込むように消えてしまい、部屋の温もりが一瞬で暗くなった。
目の前の母の姿はもうなく、ただ冷たい空気だけが部屋を満たしていた。
徳は震える手で胸を押さえながら呟いた。
「忘れない、絶対忘れないから…。」その瞬間、外から吹いていた冷たい風が急に静まり、雪が降る音だけが響き渡った。
徳はそのまま雪が降り続く窓の外を見つめ、母の思いを胸に刻むことを誓った。
翌朝、陽が昇り始めると、外は一面の銀世界に覆われていた。
静かな朝の光の中で、彼は母のいない静寂に浸された。
雪がどれほど美しくても、その景色にはかつての温もりはなかった。
徳はその後、故郷を離れたものの、母の言葉はいつも心の中に残っていた。
喪失を感じるたび、彼はあの夜の出来事を思い返し、母の思い出を大切にして生きることを決意した。
その心の底には、和やかな温もりが常に宿っていたのだ。