「忘却の池」

彼の名前は平井功、30歳。
彼は都市での忙しい生活に疲れ、心の休まる場所を求めて、田舎の小さな村に引っ越すことにした。
村は自然に囲まれており、静かな環境が広がっていた。
功は新しい生活に期待を抱きながら、急速に仕事とストレスから解放されることを願っていた。

ある日、功は村の外れにある古い神社に足を運んだ。
そこには「清めの池」と呼ばれる小さな池があり、村の人々はその水を飲むことで体と心が清められると言い伝えていた。
功はその話に興味を持ち、池で一杯の水をすくい、飲んでみた。
その瞬間、彼は胸の内に何か異様な感覚を覚えた。
心の中のモヤモヤが少しずつ晴れていくのを感じた。

だが、一晩後、功は奇妙な夢を見た。
夢の中で、彼は同じ池の前に立っていたが、池の水は濁り、どこか不気味なものが浮かんでいた。
そこには一人の女性の姿があり、彼はその顔に見覚えがあった。
彼女は引っ越す前の同僚、山田美咲だった。
美咲はかつて彼に「私の心が清められないのは、過去の出来事が影を落としているから」と語っていた。
その言葉が、今でも彼の心に深く刻まれていた。

数日後、功はまた池を訪れた。
彼の中で何かが変わっていくのを感じていた。
彼は「清めの池」に自分を委ね、少しでも美咲の言葉を思い出そうとした。
彼は池に向かって、「過去を忘れさせてくれ」と懇願したが、池の水は一向に静かになることはなかった。

ある晩、功は再び夢を見た。
今度は美咲が鬼のような表情で、彼を見つめていた。
「あなたは私を忘れないで」と彼女は叫び、そして池の中で消えていった。
功は目を覚まし、激しい動悸に襲われた。
この夢が何を意味するのか、どうして自分の心の中で美咲の存在がこんなに強くなっているのか、理解できなかった。

日が経つにつれて、功は恐怖心と同時に、彼女を救わなければならないという焦燥感に駆られた。
彼は同僚たちに美咲のことを尋ねたが、誰も彼女のことを覚えていなかった。
彼女はまるで最初から存在しなかったかのようだった。
功はますます孤独感に苛まれ、眠れぬ夜が続いた。

そして、新月の晩、功は清めの池にとうとう戻ることを決意した。
彼の心は不安と期待で揺れ動いていた。
深夜、池の水面に映る月明かりは不気味でもあり、美しい景色でもあった。
功は池の周りを歩きながら、彼女を呼んだ。
「美咲、どこにいるんだ?」

その時、誰かの声が響いた。
「私はここにいるよ」と。
それは美咲の声だった。
功は驚き、池の中を覗き込んだ。
水の中に彼女の姿が映っていた。
彼女は泣いていた。
「どうして忘れたの…」

功は彼女に向かって手を差し伸べた。
「忘れはしない、君のことを、私の心から消し去りはしない」と彼は叫んだ。
すると、美咲の表情は穏やかになり、彼はその瞬間、何かが彼の心の中で割れたような感覚を覚えた。
彼の胸の内のモヤモヤが、静かに去っていくのを感じた。

池の水は次第に澄み渡り、美咲の姿は徐々に消えていった。
彼女の最後の言葉は、「今、生きていることを大切にして」と彼に向けられた。

その日以降、功は心の中に美咲の存在をしっかりと抱えながらも、彼女を忘れることはなかった。
清めの池は、彼にとって過去をしっかりと受け入れ、前に進むための場所となった。
彼は新たな一歩を踏み出すことで、自分の心が解放されたことに気づいた。
美咲は今も彼の心の奥に生きている。

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