今から10年前、静かな山里に住む若い女性、藍(あい)は、月が満ちる夜に不思議な現象に見舞われた。
彼女の家は山の中腹にあり、周囲には人家がほとんどなかった。
月明かりが降り注ぐ夜、藍はいつも自分の部屋の窓から美しい月を眺めるのが習慣だった。
特に満月の晩は、月の光がまるで彼女を照らすかのように明るく、心を安らげてくれた。
しかし、その晩は違った。
月が高く昇り、周囲が静まり返ると、何かおかしな気配を感じ始めた。
藍は不安に駆られ、窓を閉めてカーテンを引いたが、心の奥に潜む恐怖は拭い去れなかった。
如何に美しい月であっても、その光は彼女を包み込むかのように不気味に感じられた。
藍はその夜、何度も夢を見た。
夢の中で彼女は、月の光の中に佇む一人の女性を見つけた。
その女性は美しいが、どこか冷たい目をしており、藍に向かって静かに手を差し伸べていた。
藍はその女性の顔を見た瞬間、背筋がゾクッとした。
直感的に彼女が生きている人間ではないことを理解したからだ。
次の日、藍は村の人々にその夢を話した。
驚いたことに、村には「月の女」と呼ばれる昔からの伝説があった。
それは、月に住む女が毎年、満月の夜に現れ、特定の人間を選んで消し去るというものだった。
藍は恐怖で体が震えた。
もしかしたら、彼女はその「選ばれた者」になるのではないかと不安になった。
その日から、藍は不安に苛まれ、自宅に籠もることが多くなった。
しかし、満月の晩が近づくにつれ、その恐怖は募るばかりだった。
月の満ち欠けが進む中、藍は月明かりを避け、昼間も外に出ることをためらうようになった。
それでも、運命には逆らえないことを感じていた。
いよいよ、運命の日が訪れた。
その晩、藍は恐怖で眠れずにいた。
夜が更けると、窓の外からは月の光が差し込み、まるで彼女を呼びかけるかのようだった。
しばらくして、彼女は意を決して窓を開けた。
月の光が差し込むと、その瞬間、彼女の体は冷たい霊気に包まれた。
そして、その時、先ほど夢の中で見た女性が、目の前に現れた。
藍は恐怖で動けなくなり、ただその女性を見つめることしかできなかった。
女性は冷たい笑みを浮かべ、再び手を差し伸べながら言った。
「藍、あなたを待っていたのよ。来て…」その声は甘美でありながら、どこか絶望感を孕んでいた。
藍は恐怖に駆られ、後ずさりした。
しかし、体が思うように動かない。
まるで何かに引き寄せられているような感覚だった。
疑念と恐怖が心を占める中、彼女は月の女性へと引き寄せられ、やがて月の光の中へと溶け込んでいった。
消えゆく彼女の意識の中で、藍は自分の選ばれた運命を受け入れるしかなかった。
それ以降、村では藍の姿を見かけることはなかったが、満月の夜になると、山肌の一角で彼女の名前が風に乗って囁かれるようなことが続いた。
「藍は月の女に選ばれた…」
村の人々は、月が高く昇るたびに藍のことを思い出し、次第にその名も忘れられていったが、ある満月の晩、今度は別の女性が夢の中で月の女性に呼ばれたという噂が立ち始めた。
闇の中に潜む月の女の影は、今もどこかに存在しているのかもしれない。