「遠くの影、敗者の囁き」

静まり返った夜、月明かりが薄れた森の中を、里奈は一人で歩いていた。
彼女は最近、村の近くに住む人々が語る「遠くの影」に興味を持つようになっていた。
その影は、彼女が夜更けに一人で外に出ると、どこからともなく現れるという噂があった。
多くの人がその影に遭遇し、恐怖を感じて村を離れてしまうと聞いており、彼女自身はそれがどれほどのものか、自ら確かめてみたいという気持ちが強かった。

里奈が森の奥深くに足を踏み入れると、周囲は更に暗くなり、樹木の間から差し込む月の光も乏しくなっていった。
視界が悪くなるにつれ、彼女の心には不安が募った。
しかし、探求心が勝り、もうすぐ「遠くの影」に出会えるという期待感で胸が高鳴った。

目を凝らして暗闇を見つめる里奈の耳に、微かに何かが囁くような音が聞こえた。
それは森の風の音ではなく、生物のような何かが近づいてくる音。
緊張が高まり、彼女は周囲を見回した。
そこでちらりと、視界の隅に何かを見かけた。
影そのものではなく、遠くの方からゆらゆらと動く黒い塊。
しかし、そこには人の形をした者がはっきりと存在していた。

影が近づくにつれて、里奈は動けなくなった。
恐怖で背筋が凍りつき、心臓は鼓動を速めた。
だが、逆にその影に引き寄せられるような感覚が彼女を無意識に前へと進ませた。
影の存在はやがて彼女の目の前に立ち、その顔は闇に覆われて見えないが、里奈には何か不気味な魅力を放っていた。

「私のことを見たのか?」影は低い声で言った。

里奈は思わず頷く。
「うん…あなたが噂されていた影なの?」

影は無表情のまま、彼女をじっと見つめ返した。
彼の周りには不気味な気配が漂い、里奈は心臓が早鐘のように鳴り響くのを感じた。

「私は、敗者だ。遠くに引きずり込まれ、もはや戻ることも許されない者。」影は続けた。
「しかし、あなたが近くにいることで、少しだけでもこの孤独を和らげることができる。」

里奈はその言葉に混乱した。
彼女はこの影が何を意味するのか理解できなかったが、その言葉にはどこか真実があったように思えた。
彼女はなんとか冷静を取り戻し、尋ねた。
「でも、どうしてあなたはここにいるの?」

「ここには敗者の思いが詰まっている。私のように辿り着いてしまった者が、今もこの森を彷徨っている。」影は静かに言う。
「もし、この場所を離れたいのなら、私の示す道を進むが良い。ただし、この場所を忘れることはできない。」

影の言葉には、明らかな儚さが宿っていた。
里奈は更に一歩近づくと、気づいた。
影の背後には、無数の小さな影たちが寄り集まっていた。
それは彼らの恨みつらみの象徴のようにも見え、彼女は恐怖に駆られた。

「彼らも、私のように敗者だ。」影が言った。
「あなたが近づくことで、彼らの記憶が再生され、私をこの場から解放してくれるかもしれない。」

里奈はさらに恐怖に襲われたが、同時に彼を助けたくなるような感情も芽生えていた。
彼女は手を伸ばし、影に触れようとした。
その瞬間、彼女の心の中に、長い間忘れていた感情が溢れ出した。
孤独、悲しみ、そしてどうしようもない気持ち。
影の存在が、彼女の内に眠る感情を引き出した。

「私を忘れないでくれ。」影はさらに低い声で言った。
「私は遠いところから来た者で、ここに留まり続けることの意味を知りたかった。もし、あなたが私を理解できれば、私はまた遠くに行けるかもしれない。」

里奈は影を見つめ返した。
彼女はその瞬間、自らの心の奥底に潜む「敗者」の姿を見た。
そして、今まで彼女を苦しめてきた過去の思い出や、失ったものへの後悔が、影と共鳴していくのを感じた。

「私はあなたを理解するつもり。」里奈は決意を込めて言った。
「あなたの痛みも、一緒に背負うから。」

その言葉を聞いた影は、一瞬、静止したかのように思えた。
そして、次の瞬間、彼は優しい微笑みを浮かべ、里奈を包み込むように影を伸ばした。

「あの時の情を、そしてこの場所の痛みを還してくれ。そうすれば、私もまた遠くに行ける。」影の声は静かに響いた。

彼女は胸に手を当て、自身の感情が繋がっていくのを実感した。
心の中にあった暗い影が薄れていく感覚。
それは敗者たちと共鳴し、彼女自身もまた、影の一部となってこの森を後にするのだと理解した。

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