霧深い夜、神社の境内は静寂に包まれていた。
月明かりが薄く、境内の隅々まで照らすことなく、幻想的な雰囲気を醸し出している。
その神社には、狛犬が二体、勇ましい姿で参道を見守っていた。
彼らは古来より、参拝者を悪霊から守る存在とされているが、今夜は何か不気味な気配が漂っていた。
村の若者、健二は、幼い頃からこの神社に親しんできたが、最近耳にした噂に興味を持ち、そこを訪れることにした。
噂によれば、神社の奥深くにある社、そしてその先の森には、不思議な瞳を持つ神が住んでいるという。
彼の瞳は、霧の中から光を放ち、見た者に忘れられない体験をさせるというのだ。
健二は、好奇心に駆られ、あえてその神社の奥へと足を運んだ。
まだ薄い霧が漂う中で、彼は周囲を注意深く見回した。
参道は不思議な光を放ち、まるで彼を誘うかのようだった。
ゆっくりと進むうちに、背後にある狛犬が何かを警告するように彼を見つめている気がしたが、健二はその気配を無視した。
やがて健二は、神社の本殿にたどり着いた。
そこは誰もいないが、静かに光る霧が立ち込めていた。
彼が本殿に足を踏み入れた瞬間、外の音が一切消え、周囲の霧が濃くなっていった。
迷い込んだかのように、彼は不安を感じ始めた。
その時、目の前に光るものが現れた。
それは人間の形をした霧、目は大きく、深い藍色をしていた。
まるで、健二に向かって微笑みかけているかのように見えた。
「私は狛の神。お前がここに来るのを待っていたのだ」と、囁く声が響いた。
健二は驚き、後ずさりしたが、その瞬間、神の瞳が彼を捉えた。
彼はその光に釘付けになり、動けなくなった。
目が合った瞬間、彼の心に何かが流れ込んできた。
それは彼の中に埋もれていた思い出や感情、過去の出来事が次々と浮かび上がるものだった。
彼は幼い頃の楽しい思い出、自分の大切な人たちの顔、そして何よりも、失ったものの姿を見つめていた。
「忘れたいのに、忘れられない」とつぶやいたとたん、霧の中の瞳はさらに深く、魅惑的な色合いを帯びていく。
彼はその瞳に引き込まれそうになり、心の中の恐怖がじわじわと広がっていった。
「お前には何が必要だ? 何を求めているのか?」その問いが空間に響いた。
「もう一度、あの頃に戻りたい」と健二は叫んだ。
すると、神の瞳が一瞬、まばゆく光った。
その瞬間、彼は記憶の中に吸い込まれるように、幼少期の生活を体験した。
だが、楽しいと思っていた瞬間が過ぎると、再び寂しさが彼を包んだ。
健二は、人々や時間が失われる感覚に襲われ、心の中の霧が濃くなり、視界が曇っていくのを感じた。
「失ったものは、何も戻らない」と神の声が響く。
その言葉は冷たく、彼の心に重くのしかかる。
彼はその事実を受け入れられず、挫折感に苛まれた。
周囲の光が一層強まる中、健二の身体は霧の中に溶け込んでいく感覚を覚えた。
ついに、彼は自分自身を見失い、何が現実で何が幻想なのか判断できない状態になってしまった。
そして、漠然とした意識の中で、彼はただ神の瞳を仰ぎ見ていた。
数日後、村の人々は健二の行方を心配して神社を訪れた。
しかし、彼の姿はどこにもなかった。
それから神社には、時折彼の名前が霧の中からささやかれることがあるという。
そして、あの霊的な瞳が再び現れる時、人々は誰もが注意深く、その境内を避けるようになった。