田中公園の奥には、誰もが避ける「死の井」と呼ばれる井戸があった。
その井戸は、かつて多くの人々に利用されていたが、ある日突然、村の少年がその井戸に落ちて亡くなって以来、誰も近づかなくなってしまった。
井戸の周りには不気味な噂が広まり、村の人たちはその場所を忌避した。
しかし、その噂にも関わらず、若いカメラマンの佐藤健太は、その井戸を訪れることにした。
彼は、心霊スポットとして有名な場所を撮影するために、何か特別なものを求めていた。
普段は落ち着いた性格の健太だったが、この日ばかりは特別な気持ちを抱いていた。
公園に着くと、薄暗い雰囲気が漂い、彼の心に不安がよぎった。
しかし、ペンタックスのフィルムカメラを手に取り、彼は決意を固めた。
井戸の周りには、茂った草木が生い茂り、暗い影が広がっていた。
井戸の縁には、古い木の板がかけられ、時折ひび割れた声が聞こえてくるという噂があった。
健太はその噂を思い出し、震えを感じたが、好奇心に駆り立てられて、ゆっくりと近づいていく。
井戸の中を覗くと、まるで深淵のように真っ黒な世界が広がっていた。
周囲の草がざわつき、彼の背中に冷たい風が吹き抜けた。
健太はカメラのシャッターを切りながら、ふと聞こえた「誰か助けて」という声に振り返る。
彼の心臓は急激に高鳴り、恐れが彼を包み込んだ。
その日の空はどんよりとした曇り空だったが、突然、雲が切れ、陽の光が差し込んできた。
井戸の底から、光る何かが見えた。
健太はその光に引き寄せられるように、井戸の周囲を歩き回り、何かが映っているのか確認しようとした。
意を決して彼は井戸の縁に手をかけた。
その瞬間、井戸の底から冷たい風が押し寄せ、彼は足を滑らせてしまった。
彼は必死にもがいたが、次の瞬間、真っ暗な空間に引きずり込まれていく感覚を味わっていた。
井戸の底に落ちた彼の意識は、一瞬のうちに消えた。
意識を取り戻すと、彼は広い空間に立っていた。
そこはどこか別の世界のようであり、周囲にはぼんやりとした霧が立ち込めていた。
すると、突然、目の前に真っ白い着物を着た女性が現れた。
彼女の表情はうつろで、どこか悲しげだった。
「命は、何かを切り裂くとき、何かを失うことを忘れてはならない」と彼女は言った。
言葉の意味を理解する前に、健太は心がざわめいてきた。
女性の言葉が、何か重要なことを示しているようだった。
彼は、視界が徐々に明るくなるのを感じ、自分の名前を叫んだ。
「佐藤健太です！」しかし、彼の声は空間に吸い込まれていった。
女性はただ悲しそうに微笑み、健太の気持ちを理解しているように見えた。
次の瞬間、健太は思い出した。
彼がこの井戸を訪れた理由、その心霊現象を撮影するための欲望。
しかし、その裏には、人々が恐れ、忌み嫌う理由があった。
彼は命を軽んじていたのではないか。
井戸の奥で失われた命が、その思いをつないでいたのだ。
彼は再び悲しむ女性に向かって叫んだ。
「すみません、私のせいであなたは苦しんでいるのですか？」すると彼女は一瞬だけ目を開き、静かに頷いた。
健太はその瞬間、自らが抱えていた恐れと向き合い、初めて真の意味での恐怖を理解した。
再び気を失うと、彼は地上に戻っていた。
周囲には誰もいなかったが、背筋に冷たい汗が流れていた。
彼はカメラを持ったまま、何が本当に起きたのかを整理し始めた。
その出来事は、ただの好奇心によって引き起こされたのではなく、切り裂かれた命の思いを知るための試練だったのだ。
健太は心の中で約束した。
この体験を無駄にせず、他の人たちにも伝えることを。
彼は田中公園を後にし、周囲を見渡した。
もう一度この場所に戻ることはないだろう。
やがて、彼の背後に風が吹き抜け、不気味な声が響いた。
「忘れないで…」それは、命の重みを切に思う声だった。
