静まり返ったある晩、東京の下町にある古びた和菓子屋「味のこだま」を訪れた佐藤明は、ひっそりとした店内に漂う甘い香りに誘われて足を踏み入れた。
店は所狭しと並べられた和菓子で溢れ、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。
店主のおばあさんが優しく微笑み、明に心温まるお饅頭を勧めてきた。
その餡の甘さは、彼の心を落ち着かせ、思わず笑みを浮かべる。
しかし、明が口にした瞬間、彼の目の前に不思議な光景が広がった。
店主のおばあさんの顔が影のようにぼやけ、目の奥に深い闇が宿っている。
この店には、怪しげな噂があった。
和菓子を食べた者が、霊に誘われるといわれているのだ。
明は一瞬、背筋が寒くなるのを感じたが、好奇心からその場を離れなかった。
「おいしいでしょう?」おばあさんの声が、まるで遠くから聞こえてくるように感じる。
「このお饅頭には、特別な味があるのよ。」
その言葉を耳にした瞬間、明は自らの記憶の中に閉じ込められた過去の映像が蘇ってきた。
幼い頃、祖母と一緒に過ごした日々や、和菓子を作る姿。
彼女の優しい笑顔と、それに伴う暖かさは、消えかけた思い出の中で幾度も彼を支えてきた。
だが、忘れ去ったはずの感情が再び胸を締め付ける。
「この味は、あなたの幸せな記憶から来ているのよ。」おばあさんの声が低く響く。
明は恐怖に駆られるが、視線を外すことができなかった。
その時、彼の周りの空気が変わり、店内の影がくすぶりはじめる。
明の目の前には、数秒間にわたり、祖母の姿が映し出される。
ふわりとした白い着物を着た彼女は、どこか悲しげな表情で彼を見つめていた。
「あなたが忘れていたことを、思い出してほしいの。」その言葉が胸に響いた途端、目の前の風景がゆらりと揺れ、暗い霧に包まれていく。
明はその場から逃げ出そうとしたが、身体が言うことを聞かない。
霧の中で耳にしたのは、祖母の優しい声と共に、他の叫び声も混ざっていることに気づいた。
「戻りたい、戻りたい…」という悲痛な響きは、ただの幻聴ではないと感じた。
彼の耳に響き渡る声は、過去の犠牲者たちの叫びだということを理解する。
急に視界が開け、店内に戻ると、明は泣く泣くお饅頭を口に押し込んでいた。
しかし、味はまるで悪夢のように甘く、冷たく、口の中に嫌な後味を残している。
恐怖が心の奥深くまで浸透し、何かが彼を未練から解放させようとした。
彼は必死に思い出し続けるが、周囲の景色は徐々に消えていく。
「あなたは私を思い出して、忘れないでいてくれる?」最後の声が彼の耳の中に鳴り響いた。
その瞬間、明は全てが終わったとは到底思えない漠然とした感覚に包まれた。
思わず叫んだ。
「忘れない、大切な思い出だ!」
彼はその声に導かれ、気がつくと和菓子屋の外に立っていた。
しかし、店の名前は「味のこだま」ではなく、別の名前に変わっていた。
暗闇に浮かび上がる新たな店の前には、無数の影が立ち並び、そこに霊たちが彼を待ち続けているかのように感じた。
明は立ち尽くしながらも、忘れ去られた味や記憶は、他の人々がここを訪れるたびに繰り返される恐怖の輪の一部となってしまうと理解した。
そして彼は、その果てしない連鎖から逃れることができないことを悟るのであった。