夜になり、静まり返った村の道を、一人の青年、健太が歩いていた。
彼は都会からこの村に帰省してきたばかりで、なじみのない環境に困惑しつつも、地元の友人たちとの再会を心待ちにしていた。
しかし、村には伝説があった。
その中でも特に恐れられているのが、「樹の声」と呼ばれる現象だ。
樹の声は、村の外れにある大きな古木から聞こえるとされ、その声に誘われた者は、二度と帰れないと言われていた。
健太も噂は耳にしていたが、どこか半信半疑だった。
何もない静かな村を歩いていると、木々が揺れる音が聞こえ、不気味な静寂に包まれていくのを感じた。
思わずその方向へ進むと、目の前には背の高い樹が立っていた。
朽ちたような幹からは、過去の強風や嵐の痕跡が見受けられ、その周りには黒い影のようなものがちらちらと動く。
健太はその瞬間、背筋が寒くなった。
時間が止まったかのように、周囲からは音は消え、ただ樹の存在が圧倒的だった。
「健太…」
突然、耳元でかすかに声が聞こえた。
目を凝らして周りを見回すが、誰もいない。
ただ、樹の青い葉が風もないのに揺れているように見える。
気のせいだと思い、健太はその場を離れようとした。
しかし、足は動かない。
まるで樹から何かに引き留められているようだった。
「こちらへおいで…」
再び声が響く。
今度ははっきりとした声だった。
恐怖にかられ、健太は目を閉じ、心を落ち着かせようとした。
しかし、目を開けた瞬間、目の前の樹の幹から、人の顔が現れた。
いわゆる木の精霊のようなもので、彼はその表情を必死で見つめ返した。
顔の形はぼやけ、しかし目元は鋭く、どこか悲しげに見えた。
「助けてほしい…私を解放してほしい…」
健太の心臓は早鐘のように打ち始めた。
脳裏には、幼い頃に聞いた村の伝説がよぎった。
この木の精霊が求めているのは、「解放」という名の恐ろしい儀式なのだと。
その儀式を手伝う者は、代償としてその木の声に取り込まれるという。
「誰も私を助けてくれなかった…」樹は続けた。
声は悲しみと怒りの混じったもので、周囲が少しずつ暗くなっていく。
まるでその樹の力が、夜の闇を広げているかのようだった。
健太は恐怖で身動きが取れない。
しかし、勇気を振り絞り、声を出した。
「私は、助けることはできない…」
樹の声は一瞬静まり返り、その後不気味に笑った。
「逃げることはできない。私が欲しいのは、あなたの心だ。私を助けることで、あなたも私の一部となる。」
その瞬間、地面が崩れ落ち、健太は全身から力を失った。
周囲の影が前に迫り、木の精霊の声が高まり、耳の奥に響いていた。
健太は必死に後退しようとしたが、樹から放たれた力が彼の心に入り込んできた。
道が消え、ただ漆黒の闇しか視界にはなかった。
恐れと絶望の中で、健太の意識は遠のいていった。
彼が小さな頃に友人たちと遊んだ道も、今では彼の選択を待っているのだろう。
果たして彼は、村に帰ることができるのか。
木の声は再び響き渡り、彼の心を支配し始めていた。
「お前も、私の仲間になるのだ。」樹は微笑んでいた。