静かな夜、慎一は会社帰りにいつもの道を歩いていた。
忙しい日々に疲れ、早く家に帰りたかった。
そんな慎一は、ふと普段通らない横道に目を留めた。
その道は薄暗く、所々に街灯があるものの、光が薄弱で、まるでこの世から切り離されたかのような異様な雰囲気を醸し出していた。
好奇心が勝り、彼はその横道に足を踏み入れてみることにした。
道の先には老朽化した木造の家があり、まるで忘れ去られたように見えた。
慎一はその家が気になり、近づいていった。
窓はすべて閉ざされ、庭には草が生い茂り、まるでこの家には誰も住んでいないかのようだった。
しかし、彼がその家の前に立った瞬間、背筋を凍らせるような感覚が走った。
ふと、彼の耳に微かにかすかな音が聞こえてきた。
それは「誰かが呼んでいるような声」であり、何とも言えない魅力を放っていた。
慎一は目を凝らして周囲を見てみたが、誰もいない。
だが、声は確かに続いていた。
心の底から湧き上がる恐怖感が彼の胸を締めつけるものの、何か引き寄せられるように彼はその音の方向へ進むことにした。
家の裏手に回ると、長い間放置されていたらしい井戸があった。
その井戸の中から、今まで聞いたことのないような低い声が響いてきた。
「助けて…助けて…」その声は、まるで何かが必死に救いを求めているかのように聞こえた。
瞬間、慎一は自分の心の叫びが聞こえた。
何かが自分を見ている、という感覚。
だが、その声はただの幻聴ではないと彼は直感した。
彼は恐怖を抱えながらも、井戸のふちに身を乗り出してみた。
暗い井戸の底には、ぼんやりとした光が見え、そこには一人の女性がうずくまっている姿が映った。
それは美しい少女で、彼の心に何か特別な感情を呼び起こした。
彼女は彼を見上げ、悲しげな笑みを浮かべた。
「私を助けて…ここから出して…」その声はまるで夢の中の呼びかけのように柔らかく、慎一の心を静かに掴んだ。
「どうすればいいんだ?」と慎一は問いかけた。
彼女は静かに答えた。
「私がここにいるのは、あなたのせい。私を忘れないで…」その言葉に、慎一の心は凍りついた。
忘れられた過去、彼自身の抱える秘密が彼の中であたかも生き返るかのように感じた。
彼は自分の過去に何か重いものを抱えているのだと感じた。
全ての記憶が急に鮮明になった瞬間、彼は思い出した。
少女の名は美樹、子供の頃の親友だった。
彼女は自ら命を絶った過去を持ち、慎一はその事を恥じて常に記憶の片隅に追いやっていたのだ。
彼女を救えなかった後悔が、今、彼の目の前に現れた。
しかし、彼はどうすることもできない無力感に苛まれていた。
「助けを求める意味がわかる…でも、どうやって?」無駄に手を伸ばし叫び続ける慎一の姿を見つめる美樹の目は、次第に悲しみに満ちていった。
「私を忘れたことで、あなた自身が囚われている。私を思い出せば、解放される…」彼女の言葉は、夜の空気に響き渡った。
美樹の言葉を耳に、慎一は迷うことなく井戸の中に飛び込む決意を固めた。
彼女の存在を忘れずに、過去の痛みを背負いながら、分かち合うことで新しい未来へと踏み出すために。
彼が井戸に落ちた瞬間、何かが彼の体を覆って温かい光になった。
彼はやがて自分が知らない世界へと導かれていく感覚に包まれた。
恐れは消え、彼の思いが美樹との間に架け橋を作った。
そして彼は彼女の手をしっかりとつかみ、共にこの迷宮の中を歩み始める。
孤独からの解放、そして友の記憶の中に生きることで、慎一は再び自分自身を見つけたのだった。