静かな夜、月明かりに照らされた道に一人の女性が佇んでいた。
彼女の名は凛(りん)、都会の喧騒を離れ、この静寂が心地よく感じていた。
しかし、その穏やかさの背後には、ある不穏な雰囲気が漂っていた。
凛は深い思索に耽りながら、少しずつ歩き出した。
すると、薄暗い場所からひとつの影が忍び寄ってくるのを感じた。
振り向くと、そこには彼女の見知らぬ男が立っていた。
彼の目は空虚で、何かを求めているように感じられた。
凛は背筋に寒気を覚えたが、無視する勇気も出せないまま、彼を通り過ぎた。
その男は、彼女の歩みと共にぴったりついてくる。
不気味な存在感に、凛は次第に心拍数が上がるのを感じた。
彼女は急に不安になり、ペースを早めて歩き始めた。
路傍の薄暗い影の中を走るように進むと、男の声が耳元に響いた。
「助けて……私を忘れないで」
その声は彼女の心の奥に直接響くようで、凛は足を止めてしまった。
振り返ると、男の顔は青白く、無表情だった。
しかし、その目だけは懇願するように彼女を見つめていた。
凛は恐怖を抑えこみ、男に問いかけた。
「何を求めているの?」
「私の名前は耶馬(やま)……ずっとこの道を彷徨っている。生前の姿を思い出して、あなたの中に宿りたいのだ」と彼は言った。
凛の心に、ぞっとするような感覚が走った。
彼女はすぐにその男の正体を理解した。
彼は自らの命を家族でも友人でもない誰かのもとに捧げ、何かに憑依して生き延びることを求める魂。
それは、永遠に続く孤独による苦悩の形であった。
この道は、彼のように失った命が彷徨う場所だったのだ。
凛はその場に立ち尽くし、何とか冷静さを取り戻そうとした。
しかし心の中では、自分が過去に大切にしていた人々を思い出し、痛みを感じていた。
もし、この男が憑依を求めるなら、彼の痛みを少しでも理解する手助けができるのではないかと、心のどこかで思った。
彼女は、彼の語る失った命の重さに共鳴し始めていた。
「あなたが求めているもの、それは一体何なの?」凛が尋ねると、彼は目を閉じて答えた。
「私には、誰にも理解されない孤独がある。この道を歩くたび、私の中に宿る声が聞こえる。助けてほしい、ただそれだけだ。」
凛は心中の葛藤を乗り越え、彼に手を差し伸べた。
「ならば、私があなたを思い出させるための手助けをする。条件は一つ、私にそこまでの痛みを語りかけてほしい」と言った。
男は一瞬、その提案に驚いたようだったが、すぐに静かに頷いた。
そして彼は彼の過去を語り始めた。
失った家族、断ち切られた夢、殻に閉じ込められた思い出。
凛は彼の言葉を耳にしながら、失われた命が描く苦悩の情景を頭に思い描いていた。
時が経つにつれ、凛はその影に取り込まれて、少しずつ憑依されていく感覚を覚えた。
しかし、それは単に彼を受け入れることだけではなく、彼の痛みを共に背負う覚悟でもあった。
やがてその夜も終わりを迎え、凛は道の終わりに辿り着いた。
男は「ありがとう」と静かに囁き、彼女の中から解放された。
彼の存在が、凛の心の中に強く焼きついていた。
彼女は涙を流しながら、彼の思い出を胸に刻み、残された道を歩き続けるのだった。
その道は、これからも様々な命が交差し、新たな物語を紡ぐ場所となるだろう。