「帰るべき場所」

その夜、何も起こらないことを願って家路を急いでいたのは、佐藤と名乗る青年だった。
彼は地元の敷地で行われる祭りの準備を手伝っていたが、遅くまでかかってしまった。
その帰り道、彼の心は仕事の疲れと不安で重く、早く家に帰りたかった。

帰る途中、彼はふとしたことで足を止めた。
何気なく目を向けた先には、ひときわ暗い場所があった。
月明かりに照らされてもなお、そこは不気味なまでに暗く、何かが潜んでいるような気配を感じた。

好奇心に駆られた佐藤は、その影に近づいてみることにした。
すっと立ち上がった影は、見知らぬ男の姿だった。
男はゆっくりと振り返り、彼にじっと目を向ける。
無表情で、冷たい眼差しが佐藤の心に不安をもたらした。

「帰るのか?」男が呟いた。

佐藤は驚いたが、何も言えなかった。
すると男は再び口を開いた。
「帰るのが怖いなら、私と一緒においで。」その言葉には不思議な引力があり、佐藤の心は静かに揺らいだ。
男の言葉を聞いた瞬間、何かが彼の中で音を立てた。
それは彼が忘れていた、幼少期の記憶だった。

彼はかつての友人、和也を思い出した。
和也は数年前、不運にも事故でこの世を去ってしまった。
佐藤は自責の念に駆られ、その記憶に抗うように目をそらした。
しかし、眼の前の男はまるで和也の残像のようでもあった。
暗闇が彼の心の奥底に潜む痛みを引き出してくる。

「私を忘れないでくれ。」男の声は再び響く。

心の中で葛藤しながら、佐藤は後ずさりし、逃げ出した。
だが、足がもつれて転び、彼は再び男に向き直った。
すると、男の姿は少しずつ変わっていく。
彼の身に着けていた服は、古びた着物へと変わり、顔つきも徐々に和也に似ていった。

「私を忘れるなと言っただろう。」男の声は和也そのものになり、佐藤の心を締めつけた。
彼は今までの記憶が押し寄せ、涙が溢れ出した。
「ごめん、和也。忘れたくはなかった。だけど、どうすればいいのか分からなかった。」

その瞬間、男の表情が和らぎ、彼の目に温かい光が宿った。
「心に宿る罪悪感を受け入れろ。私のことを忘れようとするのではなく、私を思い出すことで、救われるのだ。」

雨が降り始め、徐々に土の匂いが立ち込めてきた。
佐藤はその香りに和也との楽しかった思い出を感じ、心が少しずつ軽くなっていくのを知らず知らず感じていた。
「私はずっとそばにいるよ。帰る場所はここだ」と、和也の声が風に乗って耳に届いた。

彼は涙を流しながら、思い出を受け入れることの大切さを実感した。
淀んだ感情を浄化するように、彼は和也との過去を抱きしめた。
そこで初めて、彼は本当に帰るべき場所とは、物理的な家ではなく、心の中にあったのだと悟った。

雨の中、佐藤はその暗闇から解放され、静かに歩き出した。
彼の後ろには和也の笑顔が浮かぶ。
彼は二度と忘れないと心の中で誓った。
そして、これからも雨の日には和也を思い出し、彼の存在を胸に抱いて生きていくことに決めた。

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