「竹やぶの囚われ」

田舎の町に住む佐藤健一は、大学進学のために上京したばかりの青年だった。
彼は、かつての故郷を懐かしむ気持ちから、夏休みには必ず実家に戻ることにしていた。
今年の夏も例外ではなく、故郷の美しい風景と忘れがたい思い出を楽しみにしていた。

健一が実家に戻ると、母親が彼を待っていた。
「おかえり、健一。今日は友達と一緒に夕食をどう?」と母が言ったが、健一は一人で過ごす時間を大切にしたいと思い、「今日は一人でゆっくりしたい」と笑顔で返事をした。
母親は少し残念そうだったが、彼の決意を尊重することにした。

その夜、健一は鍋を作り、窓を開けて涼しい風を入れながら、自宅の二階の部屋で一人で食事を楽しんでいた。
食事が終わり、少しリラックスしようと本を手に取ると、ふと窓の外に目を向けた。
月明かりの中、実家の裏手に広がる森が見えた。
そこには、彼が子供の頃によく遊んだ竹やぶがある。

「そういえば、昔、あの竹やぶの奥には神社があったな…」と健一は思い出し、無性にその場所に行きたくなった。
幼い頃の友達と毎年行っていたが、いつの間にかその神社は忘れられ、周囲の人たちからも話題に上がらなくなっていた。

健一は決意を固め、懐中電灯を持って出かけることにした。
夜の森には、虫の声だけが響いていた。
懐中電灯を照らしながら、竹やぶの中を進んでいく。
竹林は昔と寸分も変わっていなかったが、どこか不気味な空気を漂わせているように感じた。

神社に辿り着くと、今まで見たことのない不思議な光景が広がっていた。
神社の鳥居は崩れかけ、周囲は草に覆われていたが、不思議とそこには何か神聖な空気が流れているようだった。
健一はその場に立ち、静けさの中で耳を澄ました。

突然、どこからともなく低い声が聞こえてきた。
「帰れ…帰れ…」その声は風のように彼の耳に響いた。
驚いた健一は、周囲を見回したが誰もいなかった。
恐れを抱きながらも、好奇心が勝り、「誰かいるのか?」と問いかけた。

その瞬間、竹やぶの奥から、薄い影が現れた。
健一はその影を見て、心臓が高鳴る。
影は徐々に形を形成していき、人間の姿をした。
彼はその女性の顔を見つめた。
目はどこか虚ろで、笑顔を浮かべている。
「助けてほしい…助けてほしい…」声は消え入りそうだった。

不安と恐れが交錯する中、健一は一歩ずつ女性の方へ近づいた。
「あなたは誰ですか?何があったの?」彼の言葉に、女性は悲しそうにうなずいた。
そして話し始めた。

「私の名は美咲。かつてこの神社で祭りを行っていた者です。しかし、事故に遭い、今はこの場所に囚われている。」その言葉に健一は驚いた。
昔、友達と祭りのことを話した記憶が蘇る。
時は流れ、忘れ去られた場所の悲しみを背負った者がいることに気づいた。

「私を解放して…私の存在を忘れないで…」彼女の声が耳元でささやく。
健一には何ができるか分からないが、彼女の気持ちを汲み、手を合わせて祈ることにした。
「あなたが安らかに眠れるように、皆で覚えていきます。」

その瞬間、神社周辺の空気が少し変わった。
風が吹き、竹が揺れる音が聞こえた。
神社の空間が明るくなると、女性の姿が徐々に消え始めた。
「ありがとう…」の一言を最後に、彼女は光のように消えていった。

健一は、夢から覚めたような感覚で、その夜の出来事を心に秘めたまま、帰ることにした。
神社へ行くことが他の誰かに伝わることがなかったとしても、彼は自身の心の中で美咲の存在を大切にすることを決めた。
それはまるで、彼女が本当に安らかに眠れるための約束のようでもあった。

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