中村健一は、仕事帰りの夜遅くに無人の駅に立っていた。
北海道の片田舎に位置するその駅は、普段は賑わいがあるが、今夜は訪れる人も少なく、駅の灯りが淡く光る静寂な空間となっていた。
健一は、終電を逃してしまったことを悔いながら、ホームのベンチに腰掛けた。
その時、周囲の静けさが一瞬、波紋を描くように揺らいだ。
耳を澄ませた健一は、微かに聞こえるささやき声に気づく。
「健一……」その声は、彼の名前を呼んでいるようだった。
健一は驚き、思わず振り返った。
しかし、駅の周りには誰もいなかった。
冷たい風が彼の背を撫で、彼は背筋を伸ばした。
声がどこから来るのかを確かめようと、健一は立ち上がってホームの端まで歩いた。
あたりは薄暗く、ただ駅の灯りだけが彼を取り囲んでいる。
さっきの声は、確かにここから聞こえてきたのだ。
もしかしたら、誰かが待っているのかと、期待感が胸に芽生える。
「健一……」
再び声が響く。
この声は、どこか親しみを感じさせた。
あまりにその声が彼を呼ぶので、健一は思わず足を踏み出した。
声に引き寄せられるように進んでいくと、ホームの先に一人の女性が立っていた。
彼女は薄い白いワンピースを着ていて、まるで霧の中から現れたようだった。
彼女の顔には見覚えがあったが、名前が思い出せない。
「あなたは誰ですか?」健一は尋ねた。
彼女はただ微笑みながら、その場から動こうとしなかった。
何かを語りかけるように、両手を広げる。
まるで彼を待ち続けていたかのように。
「早くこっちに来て。ここから逃げなさい。」彼女の声はさらに響く。
「駅は痛みの場、ここにいると心が削られる。」
困惑しながらも、健一は彼女に引かれるように近づいていく。
彼女の存在が、何か不自然な感覚を与える。
彼女の視線の先には、駅の時刻表があり、そこには一台の電車が来る予定が書かれていた。
しかし、その時刻は明らかに過去のものだった。
「どうしてこの駅には、誰も来ないの?」健一は声を震わせた。
「ここは断絶された時の流れ、普通の人々には見えない場所なの。あなたは、ただここに迷い込んでしまっただけ。」
彼女の言葉は、まるで真実を示す鏡のように彼の心に響く。
不思議な感覚に襲われながらも、健一は彼女の腕に触れた。
冷たさが彼の指を貫いていく。
その瞬間、健一の記憶が流れ込み、彼の中の時代が溶け合うように感じた。
「ここに残ることは悪いことではないわ。ただ、望む未来を選ばないと、続くものは何もない。」彼女が捨て台詞のように言った。
「私はどうすればいいんだ!」そう叫んだ瞬間、彼女は笑った。
「選ぶのはあなた。」
一瞬の静止。
彼女の笑い声が耳に響き、隣のホームに響き渡ったかと思うと、その瞬間、彼女の姿が消えた。
周囲の暗闇の中に健一だけが立っていた。
電車が来る気配すらない。
断絶された時の中で、彼は永遠に迷い続けるのか。
健一は冷たく、真夜中の駅の空気を感じながら、自分の選択を迫られていた。
駅の中は再び静寂に包まれ、彼の心には深い不安が渦巻く。
「さて、あなたはどうしますか?」と耳の奥で彼女の声がまた響くのだった。