「鏡の向こうの忘却」

彼の名は田中直樹。
27歳の彼は、東京の小さな出版社でデザインを担当していた。
日々の仕事に追われ、薄暗いアパートで過ごす孤独な生活に、彼は何かを失いかけていることに気づいていた。
しかし、その喪失感に浸る余裕がなかった。
もちろん、彼の日常には物足りなさがあったが、仕事があったからこそ生き延びていられた。

ある晩、仕事が終わった直樹は、疲れ果てた体を引きずりながらアパートに帰った。
部屋に入ると、いつも通り無機質な空間が彼を迎えた。
彼は少しでも気分を変えようと、古い友人が送ってくれた日本のホラー映画を観ることにした。
大きなスクリーンには、懐かしい映像が映し出され、彼はしばらくその世界に浸っていた。

映画の中で、若い女性が呪われた家に足を踏み入れる場面があった。
彼女は次第に憑りつかれ、自分自身を見失っていく。
その瞬間、直樹の心に何かがざわついた。
彼の内なる不安が顔を出し、消えてしまった何かを思い起こさせた。

映画が終わり、静寂が戻った部屋で直樹はなんとなく眠りに落ちた。
しかし、夢の中で彼は見知らぬ場所にいた。
それは暗い廊下で、周囲の壁には古い写真が飾られていた。
光が届かず、壁の隙間からは奇妙な声が聞こえてくる。
彼はその声に引き寄せられるように歩き始めた。

廊下の突き当たりには一つの扉があり、開けると朽ち果てた部屋が広がっていた。
その中央には、大きな鏡が置かれていた。
近づくと、鏡の中に彼自身ではない何かが映し出されていた。
それは彼の過去の自分で、笑顔を浮かべている。
しかし、直樹の心の中には、どこかその姿が眩しすぎる気がした。

「お前は誰なんだ?」直樹は声を発したが、鏡の中の彼は何も答えない。
ただ微笑み続けていた。

その瞬間、直樹は周囲の温度が一気に下がったことを感じた。
背筋に冷たいものが走り、次第に恐怖が彼を包み込んでいく。
鏡の中の自分が次第にその表情を失い、無表情に変わっていく。
目の前の鏡が歪み、その隙間から何かが彼に襲いかかる。

気づくと、直樹は慌てて目を覚ました。
心臓は激しく鼓動し、夢の中の出来事が頭を離れない。
彼は薄暗い部屋を見渡しながら、確認せずにはいられなかった。
自分は、憑りつかれたのか?あるいは、何かを失い続けているのか?

しかし、翌日以降も彼は同じ夢にうなされ続けた。
毎晩、あの鏡の部屋が現れ、自分の過去の姿が微笑む。
恐れることを止め、彼はその鏡の意味を探り始めた。
何かが彼を惹きつけ、彼は再び夢の中へ、あの部屋に足を踏み入れた。

浴びせられるような冷たさ充満する部屋に彼はもう慣れていた。
鏡に映る自分は次第に不気味さを増し、彼の心の奥底に隠された憂鬱を映し出していた。
「失ったもの……何だ?」直樹は思考を巡らせる。

その夜も夢の中で彼は鏡を凝視した。
その瞬間、鏡が破壊的な音を立てて割れた。
シャードが彼の心を引き裂くように響き渡り、彼の過去の思い出が飛び散っていく。
直樹はその衝撃に押しつぶされそうになった。

目が覚めたが、彼の心は重く、抜け殻のようになっていた。
時間が経つにつれて、彼は自分の存在が曖昧になっていく感覚に悩まされた。
失った何かに翻弄され、彼の意識は薄れていくばかりだった。

直樹はもう一度だけ夢の中の鏡に向き合うことを決意した。
そして、今度は恐れず、自分を認めることにした。
「私はここにいる」と声をかけた。

だが、鏡の中からの返答はもう二度と届かなかった。
彼の姿は消え、部屋に残されたのは静けさだけだった。
直樹は、ついに自らの中の憑きを手放してしまったのかもしれなかった。
それにより、彼は失ったものを取り戻すことも、何かを人々に伝えることさえもできなくなったのだ。
彼の存在が消えた後、アパートは静まり返り、過去の思い出すらも無に帰すことになった。

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