商社マンの佐藤は、仕事のストレスを解消するために、休日には都市近郊の自然に触れることを好んでいた。
この日は、心を落ち着けるために、友人と共に静かな山の中へハイキングに出かけることにした。
少し距離があったが、バスを乗り継いで目的地の山へ向かった。
山に到着すると、彼らは静寂に包まれた風景に迎えられた。
澄んだ空気と木々の間をぬって流れる小川の音が、彼の心を和ませた。
そして、数時間のハイキングを楽しんだ後、ふと日が落ち始めたことに気づいた。
夕暮れ時の美しさに感動しつつも、帰る時間を考え始めていた。
友人の田中は「もう少しこの景色を楽しもう」と言ったが、佐藤は「そろそろ引き返すべきだ」と促した。
山道には、次第に人の気配が少なくなっていく。
迷ってしまうのではないかと不安が心に重くのしかかった。
だが、田中は楽しみにしていた自然の不思議な現象を観たいという意欲から、無理をして進もうとした。
その時、彼らの前に突然、古びた土の社が現れた。
見たこともないような古い護符が貼られ、周囲には誰もいないはずの山の中で、一瞬、不穏な気配を感じ取った。
佐藤は警戒心を抱えたが、田中は興味津々で社に近づいていった。
触れたいという思いが彼を駆り立てていたが、それと同時に背筋に寒気が走った。
「なあ、これって何だと思う?」と田中が言うと、佐藤は「気をつけろ。どこかおかしい」と警告した。
田中はお構いなしに社の中を覗き込むと、そこにはさまざまな異形のものが奉られていた。
気味悪さを感じた佐藤は、すぐに友人を引き戻そうとしたが、その瞬間、田中の表情が変わった。
彼の目が虚ろになり、「いい匂いがする…」と呟く。
慌てた佐藤は田中を引き離そうとしたが、彼はその場から動こうとしなかった。
まるで、何かに取り憑かれたかのように。
社からは異様な光が放たれ、次第にその温かい光が彼の周囲を包み込んでいく。
佐藤は思わず後ずさり、逃げようとしたが、田中の手を引いて一緒に戻ろうとした。
しかし、何かが起こった。
その温かな光に吸い込まれるように、背後から体が引き寄せられ、二人は社に固まったまま立ち尽くした。
目の前には、長い黒髪の女性の幻影が立っていた。
彼女は静かに微笑んでいたが、その隙間から感じる冷たさと、目の奥にある不気味さが彼の心を掴んだ。
「あなたたち、私の代わりに継ぐのよ」と彼女は囁いた。
その瞬間、佐藤は心の奥で何かが折れる音がした。
田中の顔からは驚きの表情が消え、彼もまた婦人の顔を見るようにぼんやりと立っている。
「あなたは贄になるの、私の代わりに」と言う声が響くたびに、二人は動けなくなった。
佐藤は、何かの大きな力に引き連れていかれる感覚を感じ、身体も心も麻痺していくのが分かる。
彼は田中を引き離そうと必死に思ったが、彼の声はスッと消えてしまった。
夜が深くなるにつれ、社の周囲は時を止めているような空気になっていた。
そしていつの間にか、田中はその場で微笑んでいた。
彼が選ばれ、代わりに何かを捧げるかのように思えた。
その後、佐藤は一人、山道を戻ることになった。
周囲の景色は変わり果て、彼はもう記憶を失った道を辿るただの旅人になっていた。
出口のない迷路のように、どこへも続かないことを理解し、彼はもう二度と、元いた世界に戻ることができないのだと悟った。
それからの彼は、変わり果てた世界に取り残されたまま、ただ時間だけを廻す存在となった。