古びた宿は、周囲の山々に囲まれ、静寂な空気を纏っていた。
宿の店主は、高齢の女性、田中おばあさん一人。
彼女は宿の歴史を語ることが得意であり、たまに訪れる宿泊客に、昔の話をするのが好きだった。
ある日のこと、大学生の健太と友人の隆は、肝試しを兼ねてその宿に泊まることにした。
宿に到着すると、宿は意外にも快適そうに見えたが、廊下の隅にはほこりがたまり、どことなく不気味な雰囲気が漂っていた。
「田中おばあさん、晩ご飯は何ですか?」健太が尋ねると、田中おばあさんは微笑みながら、「今日は特別な料理を用意してるよ。昔、この宿で亡くなった方の大好物だから。」と言った。
隆はその言葉に少し引きつったが、健太は気にせずそのまま部屋へと向かった。
夜が更けると、健太は窓の外を見ながら自分のスマートフォンで動画を撮っていた。
「今から心霊映像を撮るぞ!」と意気込む彼に、隆は「おい、やめとけよ、ここはやばい場所かもしれないぞ」と言ったが、健太は笑ったまま無視した。
宿の奥の方から、何かがざわめいているように感じた。
その瞬間、部屋の電気が一瞬消え、次の瞬間には復旧した。
その時、健太の背後に冷たい風が吹き抜け、彼は振り返った。
そこには白い布に包まれた女性の影が立っていた。
驚いて後退しながら、「お前、誰だ?」と声を震わせる健太に、女性の影はただ静かに微笑んでいた。
「おい、健太、どうしたんだ?」隆が横から声をかけたが、健太はすでに部屋を飛び出して廊下へと向かっていた。
暗闇の中を走り抜け、宿の一階に降りると、田中おばあさんが台所で料理をしている姿が目に入った。
「おばあさん、今、変なものを見た!」健太が叫んだ。
「あなたが見たのは、あの女のことです。」田中おばあさんは、沈んだ声で言った。
「彼女は、ここで亡くなった宿泊客の一人。彼女が大好きだった料理を食べるたびに、彼女はこの宿に戻ってくるの。」
隆はその話を聞いているうちに、背筋が凍るような感覚に襲われた。
「つまり、今夜のおかずは……?」と声を震わせながら聞くと、田中おばあさんは「彼女が好んで食べていた、特別なおにぎりなの。」と答えた。
意を決した隆は言った。
「おばあさん、彼女はまだ未練があるんですか?」田中おばあさんは「彼女はこの宿に、何かを伝えたがっている。でも、私たちには何も分からない。ただ、彼女の存在を無視してはいけないのよ。」と語った。
健太は再び影の存在を感じながら、宿の奥へと進んでいく。
廊下の壁には、ふと古い写真が並べられていた。
その中に、先ほど見た女性の姿が写っていた。
彼女は微笑んでいたが、その瞳はどこか悲しみを秘めているようだった。
「おい、健太!」隆の声が聞こえ、振り返ると彼が心配そうに立っていた。
「もうやめようよ、帰ろう!」と叫ぶが、健太の意志は揺るがなかった。
彼はその女性に何か伝えたいことがあるような気がしていた。
誇り高く、しかし痛みを抱えた亡霊の話を聞く決意を固めたのだ。
その夜、健太は眠らずに廊下で待ち、その影と再び対峙した。
彼女は彼の前で、静かに語り出した。
「私は、ここで亡くなったことを忘れられない。それが私の苦しみの理由。どうか、私のことを語って、誰かに伝えてほしい。」その瞬間、健太の心に彼女の思いが深く刻まれていった。
翌朝、健太と隆は宿を後にしたが、心の中にはその女性の声が残っていた。
彼は彼女の物語を語り伝えることを誓い、宿を訪れた全ての人たちに、彼女の存在を思い出させることにしたのだった。
これからは、彼女はただの亡霊ではなく、語り部として生き続けるのだ。