彼の名前は田中翔太。
東京都内の小さな書店でアルバイトをしながら、文学を学ぶ大学生だ。
翔太は本に囲まれた静かな空間が好きで、毎日働くたびに新たな本との出会いを楽しみにしていた。
だが、ある日、普段とは異なる本が彼の目を引いた。
その本は、古びた表紙に「切」というタイトルが薄く刻まれているだけで、中身は真っ白だった。
不気味な魅力に惹かれ、翔太はその本を手に取った。
すぐにレジに持っていくことはできず、彼の心の中に疑念が生まれた。
こんな本は初めて見た。
何かに関わってはいけない、という直感的な感覚がそうさせた。
しかし、好奇心には勝てず、翔太は帰宅後、冷静さを保ちながらその本を開くことにした。
ページをめくるが、やはり中には何も書かれていない。
白い紙面が彼に無言の圧力をかけてくる。
焦燥感が彼を包み込み、「何かが起こるのではないか」という期待と恐怖が交錯した。
次の瞬間、彼の部屋の周囲が薄暗くなり、まるで何かに取り込まれてしまうような感覚が彼を襲った。
突然、目の前の壁に目が向くと、そこには彼が見たこともない街の風景が浮かび上がっていた。
無表情の人々が、ただひたすら行き交う風景。
しかし、彼らの足元はまるで地面に吸い込まれるかのように、沈み込んでいく。
翔太は恐れを抱きつつ、思わず本を握りしめた。
「これが切の本のせいか?」彼は一歩後ずさりした。
すると、目の前の風景が彼に向かって近づいてくる。
悪夢の中に引き込まれたようだった。
この街の人々は誰も彼に気づかず、ただ一人として感情を表さない。
それどころか、次々と目の前で足が切り取られ、まるで彼ら自身が自らの消失を楽しんでいるかのように見えた。
翔太は思わず目を覆った。
「逃げなきゃ。」彼は胸が高鳴るのを感じながら、部屋を離れた。
しかし、どこへ逃げても、彼の周りには必ずあの街が現れ、切り取られた人たちが彼を見つめ返してくる。
絶望感に襲われた彼は、その街を阻止するために本を何とか閉じようとした。
そして、その瞬間、彼が本を閉じると同時に、周囲の風景は瞬時に静まり返った。
街の人々はその場から消え失せ、翔太は元の自分の部屋に戻っていた。
ほっと胸を撫で下ろしたが、彼の手の中にあった本は、真っ先に彼を捉えたかのように、今でも漠然とした光をまとい続けていた。
しかし彼は、やっと安定したかに思えたとき、机の上にあった本が勝手に開き始めるのを見つめていた。
次のページには、彼がさっきまで見ていた街の風景が描写され、そして人々の切り取られた足元の様子が克明に描かれていた。
彼は呆然とした。
そういえば、あの人たちの表情は本当に無関心だった。
しかし、彼の心に流れる恐怖は消えず、彼はその本を閉じることができなかった。
自分自身がその街に引き込まれることを恐れつつも、「切」というタイトルの響きが頭にこだました。
翔太は気づいた。
彼は本を手放すことができない。
“切られた”が彼の運命となってしまったのだ。
永遠にこの出来事に囚われ、彼の生活もまた、次第に色褪せていくことになる。
彼は何に対しても無感情になり、完全にその街での生活に溶け込んでいく自分を想像した。
そして、何かを失うことを目的としたその本は、彼にとって恐ろしい存在であり続けた。