彼の名は健二。
彼は盲目でありながら、街の雑踏の中で自らの足で生活していた。
生まれつき視力を持たない彼は、聴覚と嗅覚、そして触覚を駆使して、周囲の世界を感じ取っていた。
街には賑やかな音が溢れ、様々な香りや温もりが彼を包む。
けれど、彼にとって一番心地よいのは、街の片隅にある小さな公園だった。
その公園には、雑木が生い茂り、風が木々の間を吹き抜けると、ささやかなさざ波の音が聴こえてくる。
特に夕暮れ時には、地面の湿った土の香りが心を和ませた。
健二はその公園に足を運び、毎日異なる「音」を楽しむのが日課だった。
ある日、いつも通り公園に向かうと、いつもとは違う感触が彼の足元に広がっていた。
もともと地面に広がる草や土の感触とは異なり、どこかひんやりとしていた。
それを踏むたびに、彼の心に不安が広がっていった。
好奇心に引かれ、健二は手を伸ばしてその感触を確かめた。
すると、何か固い物が出てきた。
それは長い線が絡まった、古びた金属製のオブジェだった。
そのオブジェは奇妙に冷たく、触ると不気味な感触がした。
『何だろう?』と彼は思った。
その瞬間、何かが彼の心の奥深くを刺激した。
彼はそれを取り上げ、耳を近づけてみた。
金属の冷たさの中に、何とも言えない「跡」のようなものを感じたのだ。
まるで誰かの名残がそこに宿っているかのようだった。
その晩、健二はそのオブジェを持って帰ることにした。
家に着くと、彼はそれを机の上に置いた。
日が沈むと、街は静まり返り、暗闇が彼の周りを包んだ。
突然、耳の奥にかすかな声が聴こえてきた。
「かえして…」一瞬、心臓が止まったような感覚がした。
声は悲しげで、かすかに彼の方へと伸びているかのようだった。
その夜、健二は何度も目を覚ました。
何かが彼をじっと見つめているような気がしてならなかった。
まるで、目に見えない存在がそのオブジェを通じて彼と繋がろうとしているかのようだった。
不安と恐怖が入り混じり、彼はその夜、ほとんど眠れなかった。
次の日のこと、彼は公園に行き、そのオブジェを元の場所に戻す決心をした。
それによって何かが解決するのではないかという気持ちが湧いてきた。
彼はその不安な想いに背中を押されるように、オブジェを手に取って公園へ向かった。
公園に着くと、空気が変わったように感じた。
さっきまでの静けさに包まれた場所で、何かが変わってしまったようだった。
彼はそのオブジェを戻した場所へと立ち、触ることで感覚を研ぎ澄ませた。
その瞬間、再びあの声が聞こえてきた。
「かえして…」
彼の動悸は速まり、心の中で恐怖が膨れ上がった。
彼はその場から逃げ出したくなったが、足が動かなかった。
やがて、声は再び彼の耳に響いた。
「私を忘れないで…」
その言葉が彼の心に強く残り、何かが彼の中で変わった。
彼はその瞬間、オブジェがただの物ではなく、誰かの思いが込められた「縁」そのものであることを理解した。
彼は逃げ出すことをやめ、じっとその場所に立ち尽くした。
様々な思いが交錯する中、彼の心に「この場所に残された思い」を感じた。
それは、数多の人々の想いや記憶が幾重にも重なり合った、かけがえのない「跡」だった。
健二はその場を離れることができず、密かにその公園を「聖なる場所」と呼ぶようになった。
夜な夜な、その場所に通い、誰かの思いと触れ合うことで、彼自身もまた新たな「縁」を結んでいくのだった。