「鏡の中の囁き」

秋の深まる頃、果樹園に囲まれた小さな村に住む佐藤美咲は、放課後の帰り道、いつもと違う音に気づいた。
奥の林の方から、微かに聞こえるような女の声がする。
声の内容ははっきりしないが、何かを叫んでいる様子だった。
「助けて…」という語尾に、不安と好奇心が高まった美咲は、ついその音の正体を確かめに行くことにした。

音のする方へ進むにつれ、周囲の静けさが増し、木々の間から漏れる光が薄れていく。
美咲の心臓は早鐘のように打ち始めた。
冷たい空気が肌を刺激し、背筋にぞくっとした感覚が走った。
次第に声が大きく、切羽詰った響きへと変わっていく。
「助けて…お願い…」という悲痛な叫びが繰り返される。

木々の間を抜け、とうとう奥の深い場所にたどり着いた美咲の目に映ったのは、かつて村で行われたと噂される失踪事件の跡だった。
美咲はそのことを薄っすらと聞いたことがあった。
それは、十年前に村から姿を消した女性の話。
彼女を探すために村人たちが入った林で、何も発見できずに帰ってきたという。

美咲は、不意に周囲が静寂に包まれたのを感じた。
その瞬間、彼女の心を掻き乱す声は止み、代わりにその静寂を破る重苦しい音がした。
それは、木の葉が擦れ合う音とは異なり、どこか不自然な響きだった。
まるで、何かが呼びかけているようで、美咲はさらに奥へ進んだ。

その先で目にしたのは、朽ち果てた木製の小屋だった。
笹の葉が湿り、薄暗い雰囲気を醸し出す。
小屋の扉は一瞬に開いていて、かすかな声が響いてきた。
「美咲ちゃん…私はここにいるよ…」

その声は、かつて村で行方不明になった女性の声に似ていた。
彼女が無残にも命を落としたその場所で、何かが美咲を待ち望んでいるかのようだった。
美咲は惹き寄せられるように足を進め、小屋の中へと入っていった。
小屋の内部には古い家具や、かすかに残る女の痕跡が見えた。
古びた鏡の前には花束が飾られ、今もまだ誰かが手を合わせている様子だった。

ふと、鏡の中に映る自分の後ろに、ぼんやりとした影が立っているのに気づいた。
心臓が一瞬止まったように感じ、美咲は恐る恐る振り返った。
しかし、そこには誰もいなかった。
ただ林のざわめきが響くばかりだった。
再び振り返ると、鏡の中の影は、いつの間にか自分自身に変わっていた。
驚きと恐怖が交錯する中、美咲は何か不自然な偽りの現実に引き込まれていると感じた。

その瞬間、美咲の耳元にささやくような声が届いた。
「今、私は生きている。あなたも私と一緒に、ここに留まって欲しい…」美咲は恐怖で身を震わせた。
何かが求めている。
逃げなければ…と思う一方で、その声に囚われ、居たいという気持ちとめまぐるしく葛藤した。

美咲は両手で耳を押さえ、「違う、私はここに留まらない!」と叫んだ。
すると、鏡の中で映る影が笑い、彼女を引き寄せようとする。
「あなたは忘れてはいけないの。私の存在は、あなたの心の中にずっとあるのだから…」その瞬間、静かな奥の林がまるで狂ったように音を立て始めた。

恐怖心に駆られ、一目散に外へ逃げ出すと、美咲は何とか小屋を抜け出すことができた。
外の光の中で、ふくらむ道を走り抜け、酸素を求めて息を切らしながら振り返った。
小屋は静まり返り、元の朽ちた姿に戻っていた。
一切の音は鳴り止み、再び静寂に包まれていた。

村に帰ってから、美咲は失踪した女性の存在が自身の記憶に埋もれていたこと、そしてその影が彼女を試すためにいたのだと気づく。
偽りの感情や思いを引きずることは、自らを閉じ込め続けることになる。
彼女はそのことを心に刻み、再びあの奥の林に戻ることは二度とないと決めた。

それ以降、美咲は自らの心の中にある影と向き合うことで、過去の喪失感を癒す術を学ぶことにした。
彼女の中に残る記憶は、決して消えることはないのだが、その影は彼女自身とともに生きていくことを許すようになった。

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