「廃材の声」

彼の名前は佐藤一郎。
鉄工所で働く彼は、毎日のように鋼鉄の音に包まれながら、静かな日常を送っていた。
夜勤明けの日、彼はいつものように帰り道を急いでいたが、足元に不安を感じた。
何かに見られている、そんな感覚が頭をもたげてきたのだ。

一郎は、近くの空き地にある古い鉄の廃材を見かけた。
その廃材は、仕事場から持ち出されたもので、長年放置されていたせいで、青錆が浮いている。
彼はその廃材を興味津々に眺めていた。
しかし、予想外の出来事が彼を襲った。
背後から、何かがじっと彼を見つめている気配を感じたのだ。
一郎はハッとして振り返ったが、そこには誰もいなかった。

その晩、一郎は眠れない夜を過ごした。
視界の片隅には、何かが動く影がちらつき、周りに居る幽霊のような存在を感じた。
仕事に行く前の準備をする彼は、その影に怯えながらも、自身を奮い立たせた。
「ただの疲れだ」、そう思い込むことにした。

だが、仕事のある日、鉄工所の中でもその影が見え始めた。
彼が鋼鉄の塊を加工していると、どこからか耳に入ってくる声があった。
それはまるで誰かが、仲間を呼ぶような懐かしい響きだった。
一郎は手を止め、周囲を見渡したが、誰もいない。
恐れが彼を包み込む。
しかし、仲間たちはその声に気づいていないようで、一ころの間、一郎はひとりだけ取り残された気分だった。

この異変は彼の周りの仲間にも影響を及ぼしていた。
数日後、同僚の山田が不思議な体験を語り始めた。
「あの空き地の廃材に近づいた時、何かが自分の後ろに居る気がした。すごく寒くて、振り返ったら誰もいなかったが、その瞬間、確かに誰かが居たんだ。」

山田の言葉を聞き、一郎の胸には恐怖が膨れ上がった。
彼はますますその現象が気になり、帰る道すがら、空き地に立ち寄ることにした。
あの日の影が何だったのか、確かめたかった。
しかし、近づくにつれて感じるその気配は、ますます強くなっていく気がした。
何かに取り憑かれているような錯覚を覚えた。

それから日々、廃材のある空き地に訪れ続けた一郎。
彼は次第にその空き地が自分にとって特別な場所になっていることに気づく。
彼は声を聞くたびに、少し安心し、一緒に居るような気持ちになった。
彼はその存在に魅了されているのだ。
何かとても大切なものが彼の中で形成されていると感じた。

ある晩、彼はまた深夜の廃材の前に座り込んでいた。
周囲は静まり返り、ただ彼自身の心音だけが響く。
その瞬間、彼の耳に今まで聞いたことのない声が鮮明に響いた。
「私はここに居る。独りで居ることに慣れているかもしれないが、一緒に居られる人がいることを忘れないで。」その言葉に、一郎は胸が熱くなった。

彼は振り返ったが、また誰もいなかった。
ただ、鉄の廃材が月明かりに照らされ、彼を包むかのように佇んでいた。
そこに居ると思っていた存在が、実は彼の心の中にあったのかもしれない。
彼はもう一度声を聞きたくなり、全力で叫び返した。
「お前は誰だ、どうして私の前に現れる?」

その瞬間、周囲の空気が変わり、鉄の塊から微かな光が発せられた。
そして、彼はその中に人影が見えるのを感じた。
彼は恐れを抱きながらも、その光に向かって手を伸ばした。
それは、失われたものであり、夜の中でも居続けられる孤独な存在だった。

一郎は、その声が彼を見守っていることに気づいた。
彼は生きている限り、その存在を心に留めつつ、生きていくことを誓った。
彼はもう過去の影を恐れず、ただ、居る誰かと共に生きていく自分を受け入れることができたのだ。

タイトルとURLをコピーしました