静かな田舎街に佇む古びた宿。
「桜の宿」と名付けられたその場所は、数十年前から営業を続ける老舗だった。
宿の外観は見るからに年季が入っており、時折風が吹くと木の軋む音が響き、どこか不気味な雰囲気を醸し出している。
ある日、都心からの旅行者、佐藤健太は、友人たちと共にこの宿に泊まることにした。
友人の中には、強い好奇心を持つ山田恵子がいた。
恵子は、その宿にまつわる噂を耳にしており、「過去に宿泊した客同士の争いがあったという話、聞いたことある?」と興奮気味に語った。
その夜、健太たちは宿の中で飲みながら、噂話に花を咲かせていた。
すると、宿の主人、田中が話に加わる。
「この宿には、昔から宿泊しに来た客が決して帰らぬという噂があるんだ。ただの噂かもしれないが、夜になると物音がすることもある。特に、争った客同士の声が聞こえるなんて言われているな」と言った。
その言葉を聞いた恵子は、「何それ、興味深い」と笑った。
しかし、宿の雰囲気がその楽しげな空気を瞬時に沈める。
周囲は静まり、時折聞こえる鳥の囀りだけが彼らの耳に届いた。
その後、仲間たちはそれぞれの部屋に散らばり、就寝することにした。
しかし、深夜の空気が薄暗くなった頃、恵子は目を覚ました。
静寂の中、廊下からかすかに聞こえる囁き声に耳を澄ますと、明確に「争え、争え」という言葉が響いていた。
不安を抱えながらも恵子は、声の正体を確かめるため廊下に出た。
彼女が進む先には大きな温泉があったが、温泉の周りには誰もいなかった。
しかし、次第に囁き声が大きくなり、「お前に決まったのか、お前を倒す!」という言葉が混じり始め、彼女は震え始めた。
その時、後ろから「恵子、大丈夫?」という声が聞こえた。
振り向くと、健太が心配そうに彼女を見つめていた。
恵子は、共に温泉に向かうことにし、脈打つ心臓を押さえながら歩を進めた。
温泉に着くと、そこには目に見えぬ霊が何人も座り込んでおり、互いに争う様子が見えた。
怨念が渦巻き、彼らの言葉はどんどん激しさを増し、次第に恵子と健太の目の前で実体を持ち始めた。
「返してこい、あの時の恨みを忘れないぞ!」と叫びながら、ある二人の客が互いに争い合っているのだ。
恵子は恐怖に震えながら後退したが、健太は彼女を引き止めた。
「ちょっと見てみよう。何が起きているのか確かめないと」と言って、先へ進もうとした。
しかし、温泉の水面が急に揺らぎ、ところどころ竜巻のように渦を巻いていく。
「なんだ、これは!」と驚く健太。
数分後、宙に浮かぶ霊たちが彼らに気づき、振り向いた。
「ここに何の用がある?出ていけ!」と怒鳴る声が響き、温泉の水が一瞬にして黒く変わった。
恐怖に駆られた恵子は、すぐに引き返そうとした。
その瞬間、彼女の手をつかんだ何かが浮かび上がり、彼女の目の前で先ほどの二人の客の争いが見えた。
恵子の脳内には、過去の宿泊客たちの怨念や未練が渦巻くように感じる。
「私たちを争わせるために来たのか。それとも、この宿の一部になってしまったのか?」恵子の脳裏を過ぎる。
家族や友人との争い、心の奥底に巣食う妬みや嫉妬が思い出され、彼女は恐ろしい感情が湧き起こる。
「出ていくよ、こんな宿にいてたまるか」と最後の力を振り絞り、恵子は健太の手を引いて宿の外へと走った。
その背後で、宿の中から観客のように二人の霊が絶叫する。
その声は彼女たちをつなぎ止め、さらなる争いを呼ぶ。
無事に宿の外に出た二人は、夜の静けさを感じながら振り返ると、宿の窓から怨念が蟲のように蠢いているのを見た。
彼女たちの心には、嫉妬や争いが色濃く残り、恐ろしくも解放されたのだ。
結局、彼らはこの宿を二度と訪れることはなく、田舎街の噂はさらに信憑性を増すことになった。