漁師である大輔は、地元の漁港で長年働いていた。
彼の生家は代々漁業を営む家系であり、海に対する深い愛情とともに、恐怖心も抱いていた。
海は彼に豊穣をもたらす一方で、神秘に満ちた存在でもあった。
ある夏の夜、大輔はいつも通り海へ出た。
月明かりが海面に反射し、静かな波の音だけが響く薄暗い夜だった。
しかし、この日は特に異様な静けさに包まれていた。
漁船のエンジン音さえも、まるで海に飲み込まれてしまったかのように感じられた。
漁を始める前に、大輔は何かに引き寄せられるように、海を見つめた。
その瞬間、何かが耳元で囁いた。
「放して…」と。
大輔は思わず振り返ったが、後ろには誰もいない。
おかしいと思いつつも、彼はその声を軽く考えることにした。
しかし、漁を進めるにつれて、囁きは徐々に頻繁になり、大輔の心に恐怖を抱かせた。
彼の脳裏には、過去に海で消えた仲間たちの顔が浮かんできた。
彼らは皆、漁労の途中に何かを感じ、見えない力に引かれて海に放たれてしまったのだ。
大輔の胸に嫌な予感が広がった。
「今度は俺かも知れない」と、彼の心は震えた。
それでも漁は止められなかった。
彼は決意を固め、網を引き上げる。
しかし、そこには何もない。
ただ静寂だけが広がっていた。
その瞬間、再び耳元に囁きが響いた。
「放して…」それは間違いなく、彼の仲間の声だった。
大輔は恐怖に駆られ、網を再び海に戻そうとした。
しかし、そこで何かが彼の心を捉えた。
それは海の底からの強い引力のような感覚だった。
身動き取れないまま、彼は海に何かを感じていた。
無数の手が彼を引き寄せるように湧き上がり、口元でささやく。
「私たちを解放して…」それは聞き慣れた声だった。
信じられない思いの中で、大輔はただただ海を見つめた。
彼は仲間たちを必死に思い出そうとした。
彼らが消えてからどれほどの月日が経ったのか。
その度に、徐々に自分の記憶も薄れていく恐怖を感じていた。
その囁きが、彼を絶望のどん底に引き込んでいく。
やがて、波が高まり、嵐が近づいてくる。
大輔はその場から逃げようと試みたが、足元が海に吸い込まれる感覚が彼を引き止めていた。
もはや彼は、放たれることを拒んでいるかのように思えた。
仲間たちとの思い出が耳元で囁き続ける。
「私たちを放して、もう助からないから…」
嵐がさらに強まる中、大輔は漁船を外すことができずにいた。
結局、彼はそのまま海に呑み込まれてしまった。
翌日、海岸には漁船だけがひっそりと残される。
誰も彼を見つけることはできなかった。
「放して…」という声だけが、海の中で永遠に囁かれ続けている。