北の町にある古びた公園、その中心には大きな桜の木が立っていた。
子供の頃からその公園で遊んでいた大輔は、誰もが恐れる噂を耳にしていた。
「あの桜の木の下で、犠牲となった者の声が聞こえる」と。
大輔はその噂を信じてはいなかったが、大人になった今でも、時折その声を思い出すことがあった。
ある夜、友人たちと一緒に公園で怪談を語り合うことになった。
雰囲気を盛り上げるために、大輔は桜の木の下に立ち、「実際にあの声を聞いてみようぜ」と挑発的に言った。
友人たちは最初は戸惑ったが、徐々にその提案に乗ることにした。
「どうせ何も起きないだろう」と大輔は心の中で思いながら、桜の木の下に座り込む。
月明かりの中で、周囲は静まり返っていた。
友人たちは少し離れた場所で待機し、彼を見守っていた。
ふと、風が吹き、桜の花びらが舞い上がる。
その時、彼の耳に微かな囁きが響いた。
「助けて……」
大輔は驚き、声の正体を確かめようとしたが、周囲には誰もいなかった。
友人たちも不安そうに彼の様子を見つめていたが、恐れを口に出すことはなかった。
彼は「ただの風の音だ」と自分に言い聞かせ、再び囁きを無視しようとした。
しかし、次の瞬間、耳元で再度聞こえた。
「助けて……私を忘れないで……」
その声は女の子のもので、どこか懐かしく感じるものだった。
大輔は胸の奥がざわつき、言葉にできない感情が溢れてきた。
彼は何かに引き寄せられるような感覚になり、思わず桜の木に手を伸ばした。
すると、冷たく硬い木の感触が彼の手に伝わる。
その瞬間、視界が揺らぎ、彼の記憶の中に映像が流れ込んできた。
彼は幼い日の記憶を思い出した。
近所に住んでいた友人の名前は、確か「優子」。
彼女はとても元気で、いつも一緒に遊んでいたが、事故で突然この世を去ったのだ。
大輔はそのことを忘れかけていたが、優子の笑顔は今も心に残っていた。
「優子……」と呟くと、その瞬間、背後で冷たい風が吹き抜けた。
驚いて振り返ると、月明かりの中に一瞬だけ透き通った少女の姿が見えた。
優子だった。
「私を見つけて……助けて……」そう囁くと、彼女は桜の木を指さした。
大輔は急に心臓が高鳴り、立ち尽くしてしまう。
彼は優子の声が求める「助け」を理解しなければならないと感じた。
その瞬間、友人たちが彼の周囲に集まり始めた。
「大輔、もう帰ろうよ」と一人の友人が言ったが、大輔は首を振った。
「優子が、ここにいる……」そう告げると、友人たちは驚愕の表情を浮かべた。
「まさか、本当にいるわけないだろう」と無理矢理彼を引き離そうとするが、大輔は優子のことを忘れたくない思いが強く、何とか桜の木に近づこうとした。
だが、周囲は徐々に暗くなり、異様な空気が漂ってきた。
大輔の目の前に、優子の姿が再び現れる。
「お願い…… 辛いの…… あなたがいないと、私はここに閉じ込められ続ける……」その声を聞いた瞬間、彼の心は引き裂かれるように痛み、涙がこぼれ落ちた。
「優子、君を忘れない。俺が助けるから、待っててくれ」そう言った途端、突如として周囲の空気が変わった。
桜の木が異様に揺れ始め、その木の根元からは黒い影が生まれた。
それはまるで優子を引き戻す悪意を持った存在のようだった。
「来るな、優子!」大輔は叫んだが、彼女の姿はどんどん薄れていく。
友人たちも恐怖におののき、次々と逃げ出した。
その間、大輔は気が狂いそうになりながらも、目の前に立ち尽くしていた。
優子は彼の心の中に生き続ける存在だったが、彼もまた桜の木に囚われる危険を感じ始めた。
そして、夜が明けると、大輔は公園の中に一人立っていた。
友人たちは帰り、周囲は静まり返っていた。
「優子、俺は忘れない……」と呟き、彼は桜の木を振り返ると、一瞬の静けさの後、微かに聞こえる囁きを耳にした。
「ありがとう……」
彼はその声を胸に刻み、桜の木が見守る中、徐々に歩き出すことを決意した。
それでも、彼は色あせない優子の記憶を心に留め、あの場所を忘れないでいることを誓った。