「影の宿」

彼女の名は直美。
大学の友人と一緒に、夏休みを利用して古びた温泉旅館に泊まることに決めた。
旅館は北海道の山奥にあり、周囲には何もない静かな場所だった。
到着するなり、どこか不気味な雰囲気を感じたが、友人たちは楽しそうに笑っていたので、直美も気にしないことにした。

温泉に浸かりながら、直美の脳裏に、宿の女将が話していたという噂が浮かんできた。
曰くこの旅館では、数十年前に一人の客が行方不明になったという。
彼は温泉に入ったまま姿を消し、二度と戻ることはなかった。
その後、何人かの宿泊客に不思議な現象が起きたと聞く。
物が消えたり、影が見えたりすることがあったと。

夜、食事を終えて各々の部屋に戻ると、直美は急にその話を思い出した。
薄暗い廊下を歩きながら、背筋が寒くなるのを感じ、急いで自室に入った。
しかし、友人が取り残された心配で寝付けずにいると、部屋のドアが突然ノックされた。
驚いた直美は、すぐにドアを開けて友人を呼ぼうとしたが、影のような何かがちらりと目に入った。

“誰かいるの?”直美は囁くように問うたが、返事はなかった。
その影はすぐに廊下の先へと消えていった。
怖い思いをしながらも、直美は何かの間違いだと思い込もうとした。
しかし、眠る気にはとうていなれなかった。

夜が深まるに連れて、廊下から妙な音が聞こえてきた。
低く不気味な囁きのような声が、彼女の耳に届いてくる。
「助けて…」それは距離が近づくにつれて、まるで誰かが直美の後ろから呼んでいるかのようだった。
恐怖に駆られる直美は、恐る恐るドアを開けて廊下に出た。

その瞬間、視界の端に影が動くのを見た。
慌てて振り向くと、誰もいない。
心臓が高鳴り、逃げたい衝動と好奇心が交錯した。
今度は自分が出発点になり、影を追うことにした。
影はゆっくりと階段の方へ続いていた。

階段を下りていくと、湯上がりの広間が見えた。
そこにはろうそくの明かりが揺れており、異様な寒気が背筋を走った。
誰もいないはずの温泉宿。
その静けさが直美の恐怖をさらに募らせた。
広間に足を踏み入れると、彼女は異様な光景を目にした。

広間の中央には、かつて行方不明になった客の写真が飾られていた。
しかし、その表情はどれも虚ろで、まるでこの世の者ではないかのように見えた。
直美は恐怖で身動きがとれなくなり、心の中で「戻らなければ」と叫んだ。

その時、耳元で再び囁く声がした。
「ここに留まれ…」その瞬間、彼女の身体は自由を失い、床に立つことすらできなくなった。
恐怖に満ちた眼差しが彼女の方向を向いているように感じられ、直美は自分の身に何か悪いことが起ころうとしていると直感した。

「助けて…出して…」心の底からその言葉がこぼれ出た。
すると、彼女は自らの意志とは裏腹に、真夜中の旅館から出て行こうとする様を自覚した。
何かに引き寄せられるように、足が重く、身体は冷たくなっていく。

直美はその恐怖から逃れるために、必死に叫びながら廊下を駆け抜けた。
影が追いかけてくる。
その影は宏大に、邪悪に、彼女の存在を糾弾するように迫ってきた。
恐怖心が頂点に達し、直美は思わず旅館の出口を目指した。

やがて、外の明るさが目に飛び込んできた。
温泉宿の扉を開けた瞬間、あたりは静寂に包まれ、まるで何も起こらなかったかのように感じた。
しかし心の奥には、確かに影が忘れ去られない恐怖が残っていた。

翌朝、友人に昨夜の出来事を話そうとしたが、言葉がうまく出てこなかった。
直美はどこかで、あの温泉旅館に何か恐ろしい秘密が隠されていることを直感していた。
そして、その影は決して彼女を追いかけることをやめないのかもしれないと。

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