彼の名前は田村直樹。
ごく普通のサラリーマンで、毎日を同じように淡々と過ごしていた。
仕事が終わると、彼はいつも決まった小さな居酒屋に立ち寄り、数杯のビールを飲んだ後帰宅する。
そんなある日、直樹は仕事帰りにふと目にした小道に足を踏み入れた。
その道は普段歩くことのない暗い小道で、周囲には古びた家々が立ち並んでいた。
以前から噂されていた「斉のかけら」を探すために、気まぐれで進んでみたのだ。
この場所では、特にある一軒の家が不気味だと語り継がれていた。
その家は、数十年前に数人の人間が失踪した場所であり、以降、誰も住まなくなっていた。
家の前に立ち尽くした直樹は、ふと身震いを感じた。
辺りは異様な静けさに包まれ、耳を澄ませても何の音も聞こえなかった。
無性に引き寄せられるように、その家の中へと足を踏み入れる。
扉は非常に古びており、押すときしむ音を立てた。
薄暗い中、彼の目は次第に慣れていく。
部屋の奥には、古いテレビや家具が散乱していた。
しかし、その中でも異様に目を引いたのは、一枚の鏡だった。
その鏡だけが光を反射し、まるで彼を誘うかのように輝いていた。
直樹は無意識に鏡の前に立った。
そして、その鏡に映るのは、自分の姿だけではなかった。
次の瞬間、彼はその鏡の中に映る自分の背後に、ぼんやりと浮かび上がる「斉」の存在を見た。
それは彼と同じ姿を持つが、どこか冷え切った目をしていて、生気を感じさせないものだった。
その存在に直感的な恐怖を覚え、直樹は後退りしながらも、その目を離すことができなかった。
「・・お前は誰だ?」と、自らに問う言葉が呟かれた瞬間、直樹の体は金縛りにあったように動けなくなった。
鏡の中の存在が、じわじわと近づいてくる。
彼は叫びたかったが、声が出ない。
息が詰まる思いで、その姿を見つめることしかできなかった。
そして、直樹は思い出した。
数日前、街で目にした怪談話。
自分の目の前のこの現象、「ループ」のように同じ場所に誘われ、存在が「廻る」ことで人々が次々と消えていくという伝説を。
彼はようやく理解した。
この鏡の中の存在は、過去にこの場所で消えた人間たちが閉じ込められ、次の犠牲者を狙っているということを。
「助けて…」心の底から助けを求めるが、周囲は完全に無音で何も響かない。
日常の喧騒は、今や彼からは遥か遠い夢となった。
安堵の瞬間は訪れなかった。
鏡の存在が彼に向かって手を差し伸べると、直樹は一気に恐怖の波に呑まれる。
「逃げろ、逃げろ!」無意識に思うも、足はその場に根付いたように動かない。
その瞬間、彼の意識は薄れていき、鏡の中に引き込まれていく。
徐々に全ての音が消え、彼の意識が再び暗闇に沈んでいくのを感じた。
気がつくと、そこはまた同じ暗い小道。
直樹は混乱しながらも、何とかその場から逃げ出す。
家を振り返ると、そこにはもう何もない。
ただ、静寂が広がるだけだった。
逃げ帰った直樹の心には、鏡の中のあの存在が消え去ることはなく、次第に彼自身が変わっていく感覚が芽生え始めていた。