「亡者の執念」

東京の片隅にある小さなテナントビル。
そこには、古びた和風の診療所がひっそりと営業していた。
その名は「和やか診療所」。
院長の佐藤嘉彦は、穏やかな雰囲気を持つ中年の医者で、患者たちからは信頼されていたが、どこか優しさとは裏腹に、重い雰囲気が漂っていた。
この診療所があまりにも独特である理由は、嘉彦が亡くなった妻、由美の影響を受け続けているからだった。

由美は診療所の開業を手伝っており、患者に対する温かい態度としっかりとした考えで院長を支えていたが、数年前、突然の病で亡くなった。
彼女がいなくなって以降、嘉彦は心にぽっかりと穴が空いたような感覚を抱えていた。
彼は仕事を続けながらも、夜が更けると由美の思い出に支配され、一人孤独で過ごすことが多くなった。

ある夜、いつものように診療所の帰り道を歩いていると、彼は不思議な動物の鳴き声に気づいた。
その声は、どこか懐かしい響きを持ち、彼を引き寄せた。
声につられて歩みを進めると、ふと目の前に彼の知らない小道が現れた。
道の先には、彼の記憶の中にある由美が愛していた古い和風の建物が見えた。

その建物は、色あせた看板に「亡者の和室」と書かれていた。
気になった嘉彦は扉を押し開け、内部に入った。
薄暗い室内には、彼がかつて一緒に過ごした由美が愛用していた品々が無造作に置かれており、まるで時が止まっているかのようだった。
彼の心に懐かしさが蘇り、涙が自然に溢れてきた。

ところが、室内の気配が、次第に重苦しいものに変わった。
和室の中央には、一冊の古びた日記が置かれていた。
嘉彦はその日記を手に取り、ページをめくった。
そこには、彼が知らなかった由美の秘密が書かれていた。
彼女は、彼が知らない間に「亡者」との交信を続けており、その力を借りて赤ん坊を育てる夢を持っていたのだ。
だがその言葉は、彼女の心の深いあらがいと執着を表していた。

「あなたを愛している。それでも、私を忘れないでいてほしい。」彼女の日記の最後には、嘉彦に向けた思いが書かれていた。
しかし、一つの明白な警告があった。
「亡者の力を借りると、正しい愛を見失う。この道を辿ると、二度と戻れなくなる。」

その瞬間、部屋の空気が急に重くなり、視界が揺らぎはじめた。
嘉彦は急に恐れを抱き、逃げ出そうとした。
しかし、体が思うように動かず、彼に向かって由美のかすかな声が響いてきた。
「私を思い出して、ずっと私はあなたのそばにいる。それが、私の執念。」

嘉彦はその声を無視して、必死に意識を保とうとした。
しかし、彼の思考は次第に混乱し、彼の心の奥に潜む不安が表面化していった。
自分が何を求めているのか、何が正しいのか分からなくなり、彼の心は闇に飲み込まれていった。

「私はあなたを手放さない。」その言葉が彼の耳元でささやかれた。
嘉彦は恐怖に駆られて逃げ出そうとしたが、どうしても動けなかった。
日記は力を持ち、亡者との結びつきが彼を捕らえていた。
彼は由美の愛を失う恐れと、彼女の執念との間で引き裂かれるように観念してしまった。

最終的に、彼は逃れることができた。
再び小道を抜け出し、診療所へと戻った。
だが、彼の心には由美の影が浮かんでいた。
彼女の存在は、どれだけ努力しても消えることはない。
愛と執着、そして亡者との交流。
それらは、彼の心の中に刻まれたまま、今も彼を静かに締め付けている。
彼はこれから毎晩、診療所から小道を避けて歩くことになるだろう。
そうすれば、彼の心の中にある不安に向き合うことができるから。

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